大八木弘明(駒澤大学陸上競技部総監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 箱根から世界を目指せ!
今年正月箱根駅伝で駒澤大学が往路復路とも制する完全優勝で2年振り、8回目の総合優勝を果たしました。 これによって駒澤大学は出雲、全日本と併せて史上5校目の同一年度学生駅伝3冠を達成したことになります。 その駒澤大学を28年間にわたって指導してきた大八木弘明監督が今年の箱根をもって駅伝の指導からは離れ、今後は総監督という立場で卒業した田沢簾選手ら世界選手権やパリオリンピックなど世界でも活躍を目指す選手の指導に専念することになりました。
まだまだいろいろやることがあり、旅行へ行くとかという気はないです。 1958年(昭和33年)福島県会津若松市河東町生まれ。 中学のころから足が速く3000mは全国大会5位、福島県立会津工業高等学校時代は疲労骨折などがあって苦しむ。 高校卒業後、小森印刷(現:小森コーポレーション)に就職、競技を続ける。 箱根駅伝を走りたいという思いを断ち切れずに24歳で駒澤大学経済学部夜間部に進学して仕事、勉学、練習を成立させるために、会社を辞めて川崎市役所に就職。 大学時代は箱根駅伝を3回走って2回の区間賞を獲得。 卒業後、ヤクルトに就職してマラソンランナーを目指しますが、当時低迷していた母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。 2004年からは監督に、今年までの通算28年間に箱根の総合優勝に8回、学生駅伝27回優勝の強豪チームを作り上げました。
36歳で駒澤大学に来てあっという間に過ぎてきたという感じがあります。 福島は円谷選手のイメージがものすごくあって、福島の選手は我慢強い、忍耐力があってコツコツやってゆくという事を学んできたという思いがあります。 中学時代から大学に行って箱根駅伝を走りたいという思いがありました。 会津工業高等学校時代は疲労骨折してしまって、トレーニングを再開しても元のような走りができなくなってしまいました。 3年間悩みました。 実業団でもやりたかったので、相談したら顧問の先生から小森印刷を紹介されて就職しました。 2年目からはエースの存在になりました。 箱根駅伝を走りたいという思いがあり、二部の大学に進み市役所に転職しました。 厳しい4年間で、分刻みの行動で、短い時間で効率のいい動きが出来ました。 朝は練習しません。 お昼に8km走りました。 4時半ぐらいからトレーニングして6時ごろ大学に行きました。 (練習がしたくて1時間目には遅刻していました。) 1984年第60回箱根駅伝に5区(山登り)を走ることが出来ました。 記念大会で20校が出場。 1区が20位ぐらいでもう区間賞を狙うしかないと思って突っ込んでいきました。 区間賞をとることが出来ました。 忙しくて大学2年では夕食を雑に取っていて、栄養面が行き届かずに貧血になってしまいました。 大会参加が出来ず悔しい思いをしました。 以後食事には気を遣うようになりました。 大学3年生の時には2区を走り、区間賞をとることが出来ました。 車を追いかけ監督車に乗って後続の選手の応援をしました。
現在は、応援のための声をかける場所が何か所か決められていて、そこで約1分の応援のための声掛けができます。 藤井選手が6区を走った時に、ラスト3kmの時にフラフラの状態で、その時に「男だろう! 男だったら最後までタスキを渡さないといかん。」といった覚えがあります。 疲労骨折などしてきた体験を生かせるように、指導にも生かしてきました。
母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。 藤田敦史選手が当時貧血であまり走れなかったが、妻に鉄分の多い食事を考えて食べさせたりしました。 夏には強くなりました。 妻は食事の管理をして、学校に通って栄養士の資格まで取りました。 最初は20人ぐらいが寮で食事をしていましたが、今では50人程度になって来ました。
初めての総合優勝が2000年。 13年間優勝から遠ざかった時もありました。 多少自分の中におごりというか、このぐらいやっていれば優勝出来るのではないかという思いがありました。 箱根と世界とを、両方ともやりたくてしょうがなかった。 いい選手がいましたが勝てなくて申し訳なかったと思います。 昔のやり方では通用しなくなってきたという思いがあり、自分が変わらなければ絶対選手も変わって行かないと思ったので、以前の様にメニューをこちらが示して、やらせるようにしていましたが、コミュニケーションをとって、優しい言葉をかけながら接していこうとしました。
マラソンの指導をしたいという思いはありました。 私のやり方が藤田敦史選手と合っていたようで、藤田選手との出会いは恵まれました。 箱根から世界へという思いはずーっと持っています。 大学3年生から私が練習のスケジュールを立ててきて、今年の2月まで立ててきました。 田沢簾はじめ鈴木芽吹、篠原倖太朗、佐藤圭汰とか世界を目指す選手が出て来て、そういった選手を見ながらやっていきたいと思います。 現場で、成長してゆく選手を見守るのが楽しみです。