坂東玉三郎(歌舞伎俳優) ・当代随一の女形として
歌舞伎座が新しくなって丁度10年。 『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)に出演、10数回やっています。 初演が1974年なので50年近くになります。 歌舞伎としては非常に有名なものです。 お富は堀り下げにくい役です。 与三郎を立ててゆく女形の役です。 湯上がりの風情、お化粧してる感じ、潮干狩りで浜遊びをしている感じとか、そういう独特の雰囲気を醸し出すことがこの役は大事かもしれません。
コロナ禍でお客様がご来場くださるなら、その状況に合わせて出来ることを精一杯やるという事と、やって良いという機会が与えられるならば、なんでもやりたい。 はじめが四部構成、次が三部構成だったので、四部構成の時には1時間で完結できる、それが新鮮でした。 三部構成になると2時間で完結できるので、『桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう)もできました。 今度は二部制になりますが、将来まだまだ変わる可能性があると思います。 『桜姫東文章』は36年ぶりに仁左衛門さんとやりました。 通しでやると5時間から5時間半になります。 今回三部制の中でやれたという事に幸せでした。
初舞台からおよそ65年余りになります。 20歳代やったものがもう50年になります。 歌舞伎を見たのが4,5歳ぐらいでしょうか。 7歳では歌舞伎の世界に入りました。 うちの近所に6代目尾上梅幸さんの弟子の尾上金枝?さんという方がいました。 私の実父と飲み友達で、そのご縁でご紹介いただきました。 正式には6歳から始めましたが、4,5歳ごろからやっていたと思います。 小児麻痺になったので、大役を頂いてから体力を消耗するのが大きかったので、どこにも行けないとか、開演前に十分準備しなければいけないとかあったので没頭しなければいけなかった。 ハンディーは今でもあり、年齢と共にその幅が大きくなってきました。
1957年(東横ホール)『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の小太郎で坂東 喜の字を名のり初舞台。 25日間で、ずーとやれる思いがありました。 踊りの会では一日で完結していましたから。 1964年に玉三郎襲名。(14歳) 父から「これからが厳しくなるぞ」と言われました。 15歳ぐらいで国立劇場が出来て、大役をいろいろやらせていただきました。 17,8歳で役を沢山いただきました。 21歳からは歌舞伎座で先代の団十郎さんとコンビを組ませてもらって、一日4本とかでて、これが厳しいという事なのかと、父が居なくなってから理解しました。
当時としては女形では身長の大きい方でした。 ひざを折ったりして、お客様には自然に見えるように工夫はしました。 毎月紹介していただく役が精一杯でした。 22から24歳まで2年半、一日も休む日がなかったことがあり大変でした。 修業期間があるということは大事なことだと思います。 マッサージをやったり、気分転換で旅行したり、全く違うものに没頭したりするものを捜したりしてやって来ました。 ダイビングをしていますが、それも気分転換です。 親しい友達と忌憚なくしゃべるという事も大事でした。 相手役には舞台上のことがあり、悩み、苦しみとかを楽屋で話すことはなく、避けていました。 個人的なお付き合い、は相手役としてはしたことないです。 先代の団十郎さんとは3回程度、仁左衛門さんとは5回程度しか一緒に食事をしたことはありません。 それも誘い合わせてというようなことはほとんどありませんでした。
理想は或る程度高く置かないと毎日前に進んではいけないと思います。 自分の隠し包まない人が何人いるか、で人生観が変わってくると思います。 相手役とは芝居に中での悩みは良くしゃべりました。 「廓文章 吉田屋」(男女の恋心が織りなす上方歌舞伎の代表作。)で夕霧が豪華な刺繍のうちかけで登場した時、大きな拍手がありました。 美しさ、色気は出せるものではないんです。 やっぱり踊りの基本、衣装が身体の一部になる、そして自然に動いて行って、お客様に見せつけるのではなくて、その役を自分が作り上げたら、その役でひたすら舞台にいるという事が大事です。 美しさ、色気はお客様が自然に感じるもので、こちらから提示するものではないんです。 ひたすら役でいるという事が大事です。 美しさ、色気を一点で見せることはできない。 流れの中、役に中に自然に出て行けばいいと思います。
女性より女性らしいという事はないんです。 女形が演じると、女ではない女が出てくる。 見る人が女ではない、現実の女性ではない人がやってるところに、見る人が思い入れを入れるから、そういう風味に見えるわけです。 プレッシャーを感じるのは年齢からくる肉体的な衰えだと思います。 対処は、身体を柔らかくして行くこと、循環を良くしていかなくてはいけない事、舞台に立つ前は準備をすること、これは昔からやってきたことでもあります。
後輩への伝承に関しては、なし崩しに、行き当たりばったり教えてゆくというのが僕の方針です。 縁のある人には教えてゆく、教えても伝わらないものもあるし、伝承というものはあまり硬く考えてはいないです。 個人の舞台といううものは一代のものですね。次の人が心を受け取って、違う方法で今のお客様に喜んでいただく方法を編み出してゆくのが伝承なんでしょうね。 同じ形ではない。
歌舞伎以外で演出したり、映画監督したりしていますが、これからはそういった方面の活動をしていきたいと思っています。 今年ジャニーズの舞台では、演劇的でもありミュージカル的でもある、歌を歌い一つのショーですね。 舞台は辞めようかとの思いはあります。 作る方に回りたいと思っています。