寺島実郎(日本総合研究所 会長) ・〔私の人生手帖〕
寺島さんは1947年北海道生まれ、1973年大学院を卒業後、三井物産に入社、イラン革命やアメリカ大使館占拠事件が勃発するなか、商社マンとして命の危険が伴う中で、情報の収集にあたりました。 その後ワシントン事務所長などを歴任し、2009年からは大学の学長も務めています。 一方、商社時代から雑誌に20年以上に渡って連載をするなど、執筆や言論活動にも大きな軸足を置いてきました。 各種のメディアを通して、政治、経済、外交、宗教など幅広い分野で提言を続けてきた寺島実郎さん、寺島さんを形作ってきた日々はどのようなものだったのでしょう。 今日は幼少の頃の話や、中東時代、確かな提言をどのように獲得していったのかなどを中心に伺います。
NHKの大河ドラマの「花の生涯」というドラマは衝撃的でした。 桜田門外の変は幕府の大老の井伊直弼が殺されて、明治の時代になってゆき、或る意味悪役だったんですね。 歴史の見方を変えれば、開国、日本の近代化に持ってゆく一つの転機に立っていた日本の人物なんだという事で、実は花の生涯だったというふうな捉え方をNHKが大河ドラマでやった。 歴史観としてこういう見方もあるというんじゃなくて、或る時代を一歩前に出て捉えてるテーマが多々あって、あれが明治に対する考え方を変えたと、僕自身も思いました。 教科書で教わるだけではなく、歴史を多元的に見なければいけないと思いました。
経済の現場にいたというのが僕の一番大きなアイデンティティーです。 多摩大学の学長もやっていますが、いろんなことをやっていると言われますが、僕のなかではみんな繋がっています。 夜の時間の無駄遣いしないというのは新入社員のころからで、8時には中座していました。 文献、本を読んで自分の面を作る。 朝は早く起きて連載の作品を作ることに集中しています。 (岩波の雑誌の「世界」で20数年に渡って連載を続けている。) 本は人の倍ぐらいの速度で読むことが出来ます。 寺島文庫には10万冊越そうとしています。 最近ではAI、生命科学とかの新しいジャンルが増えてきています。
父親が北海道の炭鉱の労務の仕事をしていました。 その後九州の筑豊に小学校2年から3年まで居て、又北海道の炭鉱に戻って、小学校高学年では札幌に住んでいました。 子供のころに異文化に接して、物凄く刺激になりました。 いじめにも会いましたが「山よりおおきな獅子出ないよ。」と母親から言われて、度胸を据えろという事だったと思います。 傾きかけた筑豊の現場にいて、弁当を持ってこれない子、両親が子供を捨ててどっかに行ってしまって、小学校3年生の子が、弟、妹に食わせるために、川でザリガニを取って来て煮て食わしているシーンを見ることになってしまいました。 世の中の不条理を感じました。 これが原点になっているように思います。
母親は国際赤十字の資格で中国の大陸戦線を動いていたというキャリアの人で、めちゃくちゃ度胸の据わった人でした。 母親のインパクトをどっかで引きずっているかもしれません。 母親は炭鉱での文化活動の中心になっていろいろやっていました。 当時は炭鉱では労働紛争が荒れ狂っていました。 労使紛争のあるよぅなところに転勤していって、それを納めて一つの流れを作ってゆくことでした。 親父が転勤するときには何百人という人が日の丸の旗を振って送ってくれました。
70年安保、全共闘運動とかにぶつかったのが、僕の大学時代でした。 1年以上全く授業が行われない中で、一般学生のなかで集まって、大学の変革、世の中の在り方としっかり向き合おうという立場でやっていました。 左翼黄金時代の我々一般学生の位置づけは右翼秩序派という事になるわけです。 戦後日本の政治が一番熱気をはらんでた時期でした。 1年半は大学が閉鎖されました。 機動隊が入って来て、大学の正常化が実現し、僕の周りにいた仲間のはずだった1000人以上の人たちが、就職を決めて出てゆく人たちがいて、パーっといなくなった。 最後に集まった人はわずか6人でした。 なんだこれはと思って、もっと本気で勉強しないといけないと思って大学院に行きました。
開発というものを抱えている地域に行って、住民意識の変化を分析するという、社会学のフィールドワークみたいなことをやって大学院に通っていました。 経済界の中心部みたいなところに行こうと思って三井物産に行きました。(大学に戻ってもいいぐらいの気持ちでした) 半年しないうちに辞表を書きました。 満額回答、右肩上がりでこんなところにいたら自分が駄目になると思いました。 入った年の73年は中東戦争が始まって、第一次石油危機で、商社批判が起きました。 先輩の仕事の総合商社の経営戦略に引き込まれて行きました。 1979年にイラン革命が起きました。 イラン・ジャパン石油化学プロジェクト(IJPC)があって、本当に会社がつぶれるかもしれないという事になって、7000億円失いましたが、よく潰れなかったと思います。
イランの革命政権と向き合うために、情報活動をしました。 当時アメリカのテヘランの大使館が革命勢力によって占拠されてしまっていた。 アメリカは5人のイラン問題専門家を選び、その責任者から5人に会う事になり、首を突っ込むきっかけになりました。 そのうち3人がユダヤ人でした。 なんでイランに社運をかけるようなプロジェクトをやったんだと口をそろえて言われました。 3年、5年も前からイランに革命が起こるというレポートを見せられました。 社から誰も知り合いのいないイスラエルに行くように命じられました。 テルアビブ大学を拠点にしてイラン情報に対する活動を始め、それが僕にとって大きな転機になりました。 それまでは自信満々で来ていましたが、言葉が通じず、自分が持っていた世界観、知識が全く意味なくなりました。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などについて最小限度の勉強をしていなかったら、相手とコミュニケーションなんて出来ないという事に愕然として、全く駄目だという事でした。
我々は極端に平和な安定した時期を生きれた世代で、そのことを知らないままに生きてきた人間なんですね。 しのぐために、人と向き合ってその人の本音を引き出さなかったら、情報活動は出来ないです。 自分が全く無知では相手にされません。 テルアビブ大学ではホメイニ師について、いろいろなジャンルの人たちが集まって調査、研究しています。 吃驚するような情報が行きかっていました。 情報は命がけなんだと思いました。 そういう意味で中東では鍛えられました。
アメリカから帰ってきた時が50歳ぐらいでした。 30代は中東で、40代ではアメリカに10年間いました。 歴史の脈絡、世界史の脈略などもっと体系的にものを捉えることが必要です。 歴史の脈略をどこまで深く体系的に整理できているかが、物事を見抜く鍵なんです。 20世紀、戦後日本史、近代史をようやく、自分自身の歴史に対する見方を踏み固め直している、といったところです。 廃刊した本は重要だと思っています。 原爆に関する開発した人たち、投下に関わった人たち、被害者達、等々重層的に一つの書架の中において、眺め考えると、見え方が変わってくる。 世界を回って自分が見てきたことを体系化してゆく、ものごとの繋がりを組み立てて行くのが、見た人の責任だと思っています。 ネットワークで世界を見るという考え方で見ると見え方が変わって来ます。
若い人たちへは、ITで武装し,SNSで武装した世代が育ってきて新しい可能性を切り開いてくれるという事は大いに期待しますが、日本が幸せな空間に閉じ込められているために、幸せな幻想の中に生きている。 世界が抱えている不条理、我々が解決していかなければいけないテーマなどについて、殺気立って問題意識をもっている人間が育つのは、非常に難しい環境にあるのが日本だと思います。 そしてどんどん内向きになってきている。 自分が果たす役割について真剣に考えなければいけないところに来ているのかなと思います。
教育の一番のポイントは自覚を持たせることなんです。 環境がいかに厳しくても、その中で自分自身の問題意識を研ぎすましていかないと駄目だと思います。 今気を付けなくてはいけないのが、AIが進んできて、思考の外部化と言いますが、自分が考えたことと、AIが考えたこととあり、自分が本気で考えたことでなくても、情報らしきものは手にできる。 環境が大きく変わった時に持ちこたえて行けるような知の基盤を作ることは、逆に今ほど難しい時期はないんじゃないかと思います。 逞しい知の基盤を作るのには紙にペンで書いて、行間を見つめて物事を考える、それをやらないとクリエーティブな思考回路は育たないと思います。