山本栄子(アイヌ文化伝承者) ・〔人生のみちしるべ〕 アイヌとして堂々と生きる
山本さんは昭和20年に北海道十勝地方の本別町でうまれ、現在78歳。 24歳で阿寒湖のアイヌの男性の元に嫁ぎます。 以来4人の子供を育てながら観光地阿寒でアイヌの古式舞踊の踊り手を仕事として、文化を伝承してきました。 阿寒口琴の会のメンバーとして海外公演にも多数参加、平成27年にはアイヌ文化財団からアイ文化奨励賞を受賞しています。 阿寒湖畔には2012年アイヌ文化専用劇場イコロがオープンし、古式舞踊、現代舞踊、デジタルアートが組み合わされた新しい演目などが上演されています。 山本栄子さんは劇場の踊り手として長年舞台に立っていましたが、今はその仕事は引退し、アイヌ文化の伝承者として様々な場で踊りや口承文芸を披露、ムックリ(アイヌ民族に伝わる竹製の楽器。口琴と呼ばれる楽器の一種)の演奏などで活動しています。 お話の中で和人という言葉が出てきます。 日本の先住民族アイヌに対して、日本の多数者マジョリティーの民族の呼称として和人という言葉を使っています。
アイヌ文化専用劇場イコロは建ってから10年ぐらいになります。 その年に引退しています。 私が活動していたところは現在資料館になっています。 舞台に一緒にお客さんが踊ったりしました。 アイヌの文化は一緒にやると楽しさが判ると思います。 刺繍、木彫りでも体験するコースがあって、体験して理解してくれる人が多くなったら嬉しいなあと思います。
嫁いで50年以上になります。 阿寒湖は四季がいろいろ一杯あって好きですが、春は特にうれしい季節です。 前田一歩園は自然保護に対するさまざま事業を行っている団体、今は財団になっている。 明治39年に作られている。 三代目の前田光子さんという方がアイヌの生活を守るために住まい、土地を無償で提供したことから阿寒湖のアイヌコタンの発展につながったという事だそうです。 前田光子さんが言っていましたが、「人間が自然を守ろうなんておこまがしい、人間は自然に守られている」。 それを聞いて、そうだと思います。 アイヌでは自然を大事にする生活をしていました。
昔はアイヌ全体が差別がひどくて、自分はアイヌだけれどアイヌは厭だという人が多かったんです。 観光地で堂々とアイヌの踊りを紹介してきたのが、いまは観光地ではない人も歌とか踊りの保存会を作ってやっています。 観光客のお客さんとはいろんなやり取りがありました。 かつて北海道はアイヌのと知でしたが、明治時代に持ち主のいない土地としてみなされて、全部日本の国に組み込まれて、鮭や鹿を獲って暮らしていたが、禁止されて農業をやるように強いられました。アイヌのことは今でも知られていないことが多いです。 教科書にも載っていないし、アイヌのことを勉強する場もないので、知らないのが当然なのかなあと思います。
ウポポイ(民族共生象徴空間 存立の危機ににあるアイヌ文化の復興・発展の拠点として誕生しました。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設の3つにより構成されている。)でアイヌ文化の紹介が開催されている。 開催中に20人ぐらいでいって、ウポポイで歌、踊り、楽器演奏などやりに行く予定です。
*「イフンケ」 子守歌 歌:山本栄子 アイヌ語 祖
祖母から教わりました。 うちは農家で祖父母がいて、母は一人娘で、父が婿で来ました。 私と弟が生まれた直ぐに、父がアルバイトで鮭漁にいって、船の事故でなくなってしまいました。 小学校まで5kmぐらいありましたが、行くとアイヌと虐められました。 意味が判らなかった。 アイヌは人間という意味ですが、それが悪口にされていた。 近くでは学校に行かなくなった子も何人かいましたが、祖母からは行くようにきつく言われました。 教室では何にもしゃべらないで黙っていました。 小学校4年生でクラス替えがあって、男の先生が「このクラスにはアイヌの子が2人いるが、虐めたら承知しない。」と宣言しました。 その後にいじめた子に対してみんなの前で謝らせて、先生が本気だという事がみんなわかりました。 以後いじめる人はいなくなり学校へ行くのが厭ではなくなりました。 先生は途中で札幌に転勤してしまいました。 先生からは虐められても頑張ってやんなさいと言われました。
祖父が中学1年の時に亡くなり、祖母もクモ膜下で倒れて、嫁に行くまで農業をやっていました。 朝、テレビでバチェラー八重子さんの歌が紹介されていて、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」と大きく字が画面に映っていました。 ずしんと胸に降りかかって来ました。 バチェラー八重子さんはアイヌの子で22歳の時、ジョン・バチェラーさんの養女になった人です。 布教活動をして、歌人でもあった。 今でも詩集を宝物にしています。 アイヌという言葉は本当は人間という意味なのに、悪口にしか使われていない、それを何とか取り返したいというのが、私の気持ちでもあるかなあと思っています。
昭和40年20歳のころ、ペウレ・ウタリの会との出会いがありました。 昭わ39年の夏に阿寒湖で働いていた若者と旅行に来た大学生が仲良くなり、ペウレ=若い ウタリ=仲間 ペウレ・ウタリの会を作ったんです。 アイヌの若者は差別体験をみんなしています。 アイヌの差別をなくすために戦うというような目標を立てて、親睦会から方向転換しました。 20人ぐらいでした。 会のことを知って参加しました。
昔はアイヌは原始共産主義で、獲物、山菜を捕ったら分け合うし、みんなで助け合って生きてゆくことだよと教えてもらって、感動しました。 本当の人間らしい生き方だと思いました。 世の中が便利になったからと言ってそれが幸せかどうかは分からない。 私の人生はペウレ・ウタリの会無しでは考えられないです。 普通に、私はアイヌだよとか、アイヌ系だよと言えるようなそんな世界になってもらいたい。