岡本颯子(絵本画家) ・物語の世界に合わせた挿絵を描く
去年の11月中旬から今年の1月下旬まで長野県岡谷市のイルフ童画館で、岡本颯子さんの原画展が開かれました。 50年のキャリアを持つ岡本さんの代表作「かぎばあさん」や「こまったさん」の原画を中心として、自作絵本や児童書の挿絵、舞台の衣装デザインなどの作品を展示するもので、地元をはじめとして県外からも絵本好きな親子連れなどが大勢訪れました。 岡本さんは1945年長野県生まれ、東京育ち。 武蔵野美術大学芸能デザイン科で舞台美術を学び、舞台装置や衣装の仕事に携わりました。 その後子供の絵本の世界に転じて、1975年のデビュー以来、200冊余りの子供の本の挿絵を手がけました。 物語の世界に合わせて画材やタッチを決めてゆくことを大事にして来たという岡本颯子さんに伺いました。
イルフ童画館の学芸員の方から、原画展をやらないかという連絡があり、やることになりました。 期間中にトークショーもやりました。 アンケートでは細かく緻密に書いてあるので良かったとか、懐かしいというような声が多かったです。
両親が画家で、兄が3人いて一番上の兄が漫画家で「カムイ伝」で知られる白土三平。 疎開先の長野で生まれて、直ぐ東京に戻りました。 身体は丈夫ではなかったが、元気な子だったと思います。 外で遊んだり絵はしょっちゅう描いていました。 グリム童話、アンゼルセン童話などを読んだものを、自分なりに割付して何枚も描いて本にして綴じたりしていました。(小学校6年生ごろまで)
武蔵野美術大学芸能デザイン科で舞台装置とか舞台衣装とか舞台照明などに関して学びました。 子供の物語に絵を付けるという事の方が興味がわきました。 20年ぐらいは絵と舞台に関する仕事をやりました。 「ティーンルック」という雑誌の表紙を担当しました。 もっと動きのあるものを描きたくなりました。 自分自身で子供向きだなあとある段階で判りました。
1975年デビュー作『おばけたんぽぽ』 編集者が自作絵本を作ってみませんかと言われて、引き受けました。 まず原稿を読んで、最初に考えるのはキャラクターです。 私はキャラクターを考えることはいくらでも考え付いて楽しいです。 基本は悪い奴にしろ、わき役にしろどことなくかわいい面があるという事を志しています。 キャラクターは〇、△、□系の3つの系統に思って考えていきます。 自然にふっと湧きてきます。
「かぎばあさん」シリーズ 20作 1年に1冊描いてきました。 文章は手島悠介 さんです。 当時は沢山かぎっ子がいました。 かぎばあさんは救いのばあさんでした。 「こまったさん」シリーズは料理が大事な要素になっている。 第1巻が『こまったさんのスパゲティ』 全部で10巻で10年かかりました。 文章は寺村輝夫さんです。
夫の青木 明節、(元雑誌の編集長)が作った「さよなら?」、二人で作って本になるまで7年かかりました。 最初に貰った原稿が「今日は朝から夜だった。」というもので、最初からそこで引っかかってしまってしまいました。 出てくるルイちゃんという少女はとても好きでした。 ルイちゃんとA君という主人公がほとんど実像としては書かれていないので、 ルイちゃんとA君の心象風景というもので書き上げようかなと思いました。 今までとは違う発想で描きました。
作家、編集者、画家とが三位一体となることが必要で、編集者の存在は大きいと思います。 「かぎばあさん」、「こまったさん」に出会えたのは幸運だったと思います。 編集者は作家の私の橋渡しをしてくれる。 編集者は割付をしてくれます。(絵本の面白い区切り方など) 「かぎばあさん」は小学校3,4年生が対象で、「こまったさん」は1年生ぐらいです。
父は岡本 唐貴、プロレタリア美術運動家で、前衛的な画風です。 一番好きなのはセザンヌと言っていました。 母親は脇でよく勉強、絵を教えてくれ気合いをいれくれていました。 或る時に母親の気合で描いているなと気付きました。(小学校5,6年生) 母親がいないと成立しないなと思って、母親から離れました。 母も手離しくれました。 長男(白戸三平)とは歳が13離れていて、一緒に遊ぶという事はなくて、東映の映画館には毎週土曜日には連れて行ってくれました。 兄は水木しげるさんとは知り合いだったようです。 「カムイ伝」を「ガロ」に載せるんですが、「ガロ」の創刊自体に圧力があったりして問題があった様です。 次兄とは12歳違い、一番かわいがってもらいました。 中学になるとオペラ、コーラス、オーケストラ、バレエ、などに連れて行ってくれました。 そういった経験が作品の中にありますね。 どうしたら本を読む子に育つかという入口はやっぱり絵本だと思います。