2021年3月30日火曜日

キーン誠己(浄瑠璃三味線演奏者・養子) ・【わが心の人】ドナルド・キーン

 キーン誠己(浄瑠璃三味線演奏者・養子) ・【わが心の人】ドナルド・キーン

ドナルド・キーンさんは1922年ニューヨーク生まれ、欧米に日本の文学作品や文化を広く紹介しました。   2011年3月の東日本大震災の後、日本人を励ましたいと日本国籍を取得しました。   2019年2月24日に亡くなられました。 96歳でした。  キーン誠己さんは音楽活動を通じて、ドナルド・キーンさんと出会い2011年から共に暮らし、ドナルド・キーンさんの晩年を支えました。

父が亡くなりあっという間に過ぎました。  「黄犬忌」と漢字にしました。 父はよく当て字でいろいろ書いていました。  黄犬も若いころから使っていましたので、これを使いました。   「黄犬忌」には講演会も行いました。  今年も色々企画がありましたが、中止になってしまいました。   

2006年11月、人形浄瑠璃の文学座で三味線弾きをしていましたが、辞めて新潟の実家に戻って家の手伝いをしていました。   ドナルド・キーンさんの講演会があって控室に何の連絡も無しに行きましたら、温かく迎えていただいて、親しくしていただきました。 父は手紙を書いたりするのが豆で日課になっていました。  英語、日本語、フランス語は同じスピードで書いていました。   2011年東日本大震災が起こると日本人になろうと決意しました。   2011年9月から東京で一緒に暮らすようになり、2012年3月に父が日本国籍を取得して、直後に養子縁組をしました。  自然に受け入れられました。 

寝食を共にしたのは8年足らずでしたが、大変充実した毎日で父も喜んでくれたと思います。   学者である、研究者である、教育者であるという事を強く意識していました。  自分は日本文学の伝道師であるという事をしょっちゅう言っていました。  第二次世界大戦でいろいろ見聞き、日本語の語学将校として経験しているので、根っからの平和主義者で、差別を極端に嫌う人でした。   ユーモアを持った人で話が旨い方でした。

勉強が好きで無理が好きですと言っていました。  音楽、特にオペラが好きでした。  「オペラへようこそ」という本は父が亡くなって一か月後ぐらいに出版しました。    ニューヨークに行けばオペラ座で3,4回と行きましたし、日本でも行きました。  オペラ映画も年間15本ぐらい見ていました。   歌手ではマリア・カラスが大好きでした。

日本の伝統音楽、浄瑠璃が好きで日本に来て観る前から好きで研究論文も出していました。 私が稽古したりするのを聞いていたりして執筆していました。  何度か二人で講演をしました。  演目は新潟県が舞台で、「越後國・柏崎 弘知法印御伝記」という作品で、日本には本が残っていなくて、大英博物館にあって1962年に鳥越先生が発見して、父がこれをやったらいいんじゃないかという事で、人形使いの方たちと協力し合って2009年に作り上げました。  300年ぶりに復活して注目されて2017年にはロンドンまで行って父がレクチャして講演しました。  全部やると3時間近くかかります。 

*「越後國・柏崎 弘知法印御伝記」六段目 クライマックスの部分 語り、三味線:キーン誠己

父もこういう世界が好きでした。  父は近所でも人気者で買い物を毎日のようにいって、いろんな店の人と気楽に声を掛け合っていました。   料理も好きでステーキは絶品でした。  俳句も時々作っていました。  代表作に「罪なくも流されたしや佐渡の月」いう句がありました。  「稲刈りや二百とせのかたみなり」? 金沢で作ったもので1976年の句だと判りました。  アメリカの建国200年を記念したものの句です。

ドナルド・キーン財団を作って、関係機関と連携してやっていきたいと思っています。  父の残した膨大な資料をきちっと整理して後世に残したいと思います。  来年は生誕100年という事で、記念のドナルド・キーン展を神奈川近代文学館で5月からやっていただく事になっています。