棚橋昭夫(元 NHKプロデューサー) ・【上方演芸おもしろ草子】「『おちょやん』の時代 浪花千栄子の人生」
『おちょやん』 明治、大正、昭和と貧しく生まれた大阪の少女がやがて女優の道を生き抜いてゆくという姿を描いています。 戦後はラジオ,TVで活躍し大阪のお母さんとよばれた、浪花千栄子さんの人生を題材に描 いた物語です。 元 NHKプロデューサー棚橋昭夫さんが語った、私の面白交遊録の中から1996年6月22日放送の「大阪のお母さん 浪花千栄子の巻」を聞いていただきます。 30年代の人気ラジオドラマ「お父さんはお人よし」で共に仕事をした棚橋昭夫さんがまじかに見た女優浪花千栄子さんの仕事ぶり、人柄、エピソードをお聞きください。
おしん顔負けの少女時代、道頓堀の役者時代は涙なくして聞けないエピソードが山ほどあります。 そんな苦労の蓄積が信仰心や優しさを作り出したのではないでしょうか。
作家の長沖一さんの「上方笑芸見聞録」、浪花千栄子さんが残したたった一冊の著書自叙伝の「水のように」を参考にしながら、私自身との交友の思い出も交えてお話を進めたいと思います。
昭和36,7年私は「お父さんはお人好し」の特集番組を企画しました。 題して「妻をめとらば」、お母さんのお千栄のお里を浪花千栄子の生まれ故郷大阪府南河内郡大伴村大字板持(現・富田林市東板持町)に設定しました。
作家の長沖一さんの「上方笑芸見聞録」で浪花千栄子のくだりで、放送の取材で彼女の生家あたりに行った事がある。 貧しい村だったが、その中で最も貧しい家に生まれ育ち、一懸命に生き抜いた彼女の姿が三つ子の魂百まで晩年まで生き残ったと思う。 父は卵と鶏の行商でほとんど家にいたことがない。 母は彼女が5歳の時に亡くなります。 弟を抱えて小学校さえもいかせてもらえず、鶏のエサを作る毎日です。 或る日友達がぴったりと来なくなります。 訳は母親に髪をすいてもらったり洗ってもらったりできない彼女の頭におびただしいシラミがわいていたんです。 彼女は竹やぶに弟と安息の場所を見つけました。 その場所は自叙伝の「水のように」のなかで夢の国の様だという風に描いています。 一年中竹と遊び竹と語り、竹を愛することに自分の喜びを見出すようになりました。
後年京都嵐山の天龍寺の近くに料亭「竹生(ちくぶ)」を経営するほどになりました。 襖、障子、座布団、夜具、お銚子、食器類、庭、などすべてに竹があしらわれていて、竹は女優浪花千栄子の命であったことがよく判ります。 彼女が自ら名付けた双竹庵と呼ばれた離れは、心ない週刊誌、ゴシップに追われた女性たちが傷ついた心と体を休めるためのねぐらにもなりました。
本名を「南口 キクノ」と言います。 幼い日々は竹やぶの中で遠くから聞こえてくる本場の河内音頭を聞きながら唇を噛みしめながら苦しみの時を送りました。 学校に通う友達をうらやましく見送る日々、父の再婚、再婚相手との不幸な生活、弟との家出の旅、9歳の秋、大阪に連れて行かれました。 初めてみる道頓堀の色彩的な美しさと賑わいは度肝を抜きました。 自分の運命の激変、子守り兼下女として雇われることになった仕出し屋弁当屋に冷たい重苦しい空気の流れを敏感に感じました。 誰が来ても長続きしなかったという定評のあったその店で営々と8年を過ごしました。 彼女を支えていたものが二つあった。 尋常小学校6年出たぐらいの読み書きが早くできる様にならないといけないという事、劇場の幕の袖から大好きになった名優、花形たちの芝居が毎日ただで観られるという事でした。
2代目渋谷天外との結婚、スターの道を歩み始めた彼女はそれと引き換えのように離婚という不幸に見舞われ、、京都の裏町の二階に身を潜めます。 NHK大阪放送局は『アチャコ青春手帖』という企画をたてます。 相手役に白羽の矢が立ったのは浪花千栄子ですが、行方が分からず、浪花千栄子探しが始まる。
「水のように」の中で彼女は、NHK大阪放送局のプロデューサー・富久進次郎さんがわざわざ京都まで探しに来てくれました。 ・・・なかなか簡単にはわからなかった。 飲み屋で情報を得ました。 相手役ならば花菱アチャコと心に決めていました。 その機会を与えてくださって、そのことで女優として身も心も新しく再出発の基礎ができたのは富久進次郎さんのお陰です。 『お父さんはお人好し』にも二人で出演、これが長寿番組となる。
台本の本読みの時に小学校のしん子から台本の文字を悪びれることなく日常茶飯事にみんなの前で教わってもらっていました。 知らないことを知っている人に教えてもらうのは当たり前、教えてもらわない方が恥ずかしいんです、と言っていました。
彼女は動物が好きで特に猫が大好きです。 お茶屋の時代全くの濡れ衣で、彼女がお金を取ったという事件がありました。 どういい訳をしても駄目だと観念した彼女は、死ぬことが自分を解放してくれる一番いい道だと思いました。 死ぬ場所は文字が勉強できた場所、自分を取り戻すための唯一の場所であった便所の中と決めて、便所の梁に帯を釣り下げて首をくくることでした。 窓のところにいた蟻が敷居の端にいったら台を蹴ろうと思っていました。 飼い猫が便所に入ってきて彼女の裾を引っ張り、追い払おうとしても離れようとせず、じゃれつく始末、死と対決する気持ちは霧のようになくなってしまいました。 自分の命を救ってくれたのは猫なので一生猫を可愛がりました。
休憩時間にある子が天津甘栗を買って来てみんなで食べ始めたが、彼女は甘栗が大好きだったが、彼女は手を出さなかった。 道頓堀の仕出しのお茶屋の時の話をし始めた。 11歳の時に天津甘栗が大評判になった。 主人に毎日のように甘栗を買いにやらされる。 3分で栗を買ってきたら褒美に栗をやるという事でした。 帰ってくると8分かかってしまって、次は7分、そして5分、裸足でなりふり構わず疾走して、主人に渡すと、褒美という事でそこから一個取り出して割ってくれて実を取りだし、手を差し出すと、自らの口に放り込んだのでした。 40年後この話を徳川夢声さんとの対談でこの話をしましたら、夢声さんと編集部から大量の甘栗が届いて、神棚にお供えして、食べようとしてもどうにも喉を通らない。 食べてしまえばもうあの思い出ともお別れになってしまう、もっと楽しみは後に残そうと彼女は思ったんです。
昭和40年3月、10年間続いた『お父さんはお人好し』の最終回のエピソード。 全員で蛍の光を歌いながら泣いてしまいましたが、彼女が突然ステージから降りてきて、最前列のおじいさんの手を取りました。 驚くおじいさんをステージに引き上げました。 出演者がみんなが取り囲みました。 おじいさんは難聴でいつも早くきて行列の最前列に並んでいました。 公開録音に通う事を何よりの楽しみにしていた、なぜか彼女は知っていました。 一生に一度の一番華やかな主役の場を彼女はそのおじいさんに提供したんです。
昭和48年12月22日 養女のてるみさんから電話がかかってきて、亡くなったという事でした。 彼女の顔を見てはっと息をのみました、ほんのり桜色の貌には血が通っていました、綺麗で安らかな顔でした。 てるみさんにあなたしか出来ないことをやってほしいと生前言っていたそうです。 私が息を引き取ったらすぐに、私の顔を力いっぱい何べんも叩いて欲しいという事でした。 そうすると顔に血が上ってきて綺麗な顔になるという事でした。 その顔色がかなりの時間もつそうです。 私は役者だから来てくれた人にむさくるしい顔は失礼です、という事でした。 役者はサービスを忘れたらいけません、判ったら稽古しようという事で私は呆然と聞いていました。 私はお母さんの顔を何度ともなく叩きましたと、てるみさんは涙を流しながら言いました。
亡くなって中一日おいて浪花千栄子の追悼番組が行われました。 言葉がはっきりとした大阪弁という事で、浪花女という事でした。 ファンを大切にするという事は有名でした。 信仰に徹していて芯が通っていました。 こんなに早く亡くなられて惜しくてしょうがない。 奥ゆかしい方でした。 もう二度とこのような人は出てこないでしょうね。 悩み相談係でした。