照井翠(俳人) ・俳句で残す東日本大震災の10年
照井さんは31年前俳句の会に入会し、平成14年に現代俳句新人賞を受賞します。 平成15年には第5句集『龍宮』により第12回俳句四季大賞および第68回現代俳句協会賞特別賞を受賞、このほど句集『泥天使』を上梓します。 句集には大震災の記憶をとどめたいという思いが込められています。
東日本大震災から10年 になります。 当日、釜石高校に勤めていて、次の日が入試だという生徒たちを指導していました。 地響きと同時に床が盛り上がってきました。 学校に一晩過ごすことになりました。 3百数十名いました。 一般の人も来ました。 波に飲まれた家族の光景をみた父親が息子さんを抱いたりしていました。
俳句はメモ用紙に浮かんだものを書いていました。 鎮魂の思い、亡くなられた方への御霊への私なりの祈りの思いを詠んで行けたらなあと思って、一句、一句詠んでいきました。
「春の星こんなに人が死んだのか」 その夜は満天の星で光り輝いていました。 なんでこんなに星があるの、浜で亡くなった人が昇天なさって、御霊が光っているんだと思えるほど美しい星空でした。
「喪へばうしなふほどに降る雪よ」 三陸の沿岸って連日大雪が降ることはないのですが、毎日雪が降って、夢や希望も失いかけている時に、ひたすら雪が降ってきて、そういうところから生まれた句です。
「泥の底繭のごとくに嬰と母」 震災三日目にアパートがどうなっていつか見たくて出かけましたが、街は泥だらけでした。 泥の底に赤ちゃんを抱いたお母さんがまるで繭のように亡くなった様子をうかがって、こういう句ができました。 「戦争よりひどいよ」と年寄りの方がおっしゃっていました。 瓦礫から抜け出そうともがいて亡くなっている人、大変な状況で地獄だとおっしゃっていました。 釜石は鉄の街なので戦争で艦砲射撃を何百発もうけた街でもあります。
「朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ」 消防車が横たわっていたり、パトカーが車の上に積みあがっていたり、介護の車が電信柱に寄りかかっていたりする中で、立派なグランドピアノが道路の真ん中に泥まみれでありました。 ピアノとしての命を失ったのかと思うと苦しい思いがしました。 見たことのない非日常的なものが眼の前にありました。 震災後2,3年後は復興に向けていくようなものだと思いますが、なかなか進んではいかなかった。 疑念がわいてきた時期でした。
「万緑の底で三年死んでゐる」 3年経ってもそこで死んでいるんだというつぶやきのような句です。
「草茂るずっと絶望してゐろと」 投げやりな感じ、はかない気持ちを持ったし、それではいけないという気持ちもあり、震災後3,4年は心が揺れ動いた時期でもあります。
『龍宮』に収めた句があり、その後8年間震災と向き合って来て、その間に詠み溜めた句を収めたのが 『泥天使』になります。 私にとって震災の本質、震災を象徴するものが泥です。
「黒波の来て青波を呑みにけり」 季語はないのですが、一方からどす黒い波が来て青い波を吞み込んでいってしまった。
「海からも海へも桜散りにけり」 海からもというのはこの世ではないところから桜が浜のほうに散り込んできているという句です。
「佇めば誰もが墓標春の海」 放心状態でみんなが無言で沖を見ていたが、棒立ちになっていて、墓標のように見えました。
「逢へるなら魂にでもなりたしよ」 これも季語が無いですが、自分にとって大切な人に逢えるなら魂にでもなりたい。 魂になるという事は自分自身が霊魂になる事。
「初螢やうやく逢ひに来てくれた」 ようやく会いに来てくれた。 螢の飛ぶ季節が来ましたが、螢が自分の袖口に止まってくれる、葉っぱの上に止まってくれる、それを見て震災で亡くなったあの方が、ようやく今会いに来てくれているんだと思った句です。
「卒業す泉下にはいと返事して」 務めていた学校の生徒は全員無事でしたが、他の学校では亡くなられた方がいて、亡くなった生徒の名も担任の先生は卒業で呼んであげたと思いますが、声はないんですが、おそらく泉下(あの世)ではいと返事をしてくれていたであろうなというところからこの句は生まれました。
「寒昴たれも誰かのただひとり」 スバルという星、家族のようにこじんまりと集まっている、それを見ていて、誰かにとってはたった一人のかけがえのない存在だと思ってみたものですから、そういう思いで詠んだ句です。
私自身が涙を流しながら、歯を食いしばりながら一句一句、鎮魂の思いで詠んでいった句なので他の人にも伝わればいいなあと思います。 句集を世の中に残すことで、紙でできた碑(いしぶみ)のようなもので、紙の碑という思いで作りました。
避難所の子供たちに薄い雑炊を「ラブ 注入」と言って注いで上げたら、子供たちは「ヤダ先生ったら」と言って笑ってくれて、一般の方々も「先生、私たちのも ラブ注入してくださいと」言われて、「ラブ 注入」、「ラブ 注入」と言いながら薄い雑炊を盛らしてもらいました。 腹の底から笑えない状態だったが、ようやく本当に笑ってもらう事ができました。