遠藤伸一(宮城県石巻市 木工作家) ・東日本大震災10年シリーズ 「死んでもいい」から「精一杯生きる」へ
52歳になる遠藤さん、宮城県石巻市に生まれ育ち、高校卒業後に上京、1994年に妻と3人の子供を連れて故郷の石巻市に戻りました。 2011年に震災に遇い、長女で中学1年生の花さん、長男で小学4年生の侃太君、次女で小学2年生の奏さん、子供3人を亡くしました。 深い絶望から一時死ぬ事さえ考えたといいます。 遠藤さんはその後、自宅の跡地に仲間が集える拠点を設けたり、子供たちのための木製のモニュメントを作ったりと、妻の涼子さんと力を合わせ、地域の復興に取り組んできました。
或る公園で木製のスペースを見たときに、木製の仕事をしたいなと思いました。 木製の遊具を作っている会社に入れていただいて修行させてもらいました。 長女が小学校1年生になる時に、故郷に戻ってきました。 長女は言葉が判らないと泣いて学校から帰ってきたりしましたが、そのうち慣れてきました。 海に関係する遊びが珍しくて、田んぼは見たことないといったりして吃驚しました。
当日は水産会社の工事の引き渡しをしていました。 地震で家が心配で自宅に戻ってきてら、母親と長女がいました。(卒業式で早帰りだった。) 侃太と奏は学校だという事で迎えに行きました。 家に連れて帰って、親戚との連絡にために家を出ていきましたが、津波のことは頭にありませんでした。 トラックで戻る途中に津波に会ってしまいました。 家とか車が向かってくる感じで、目を疑うような光景でした。 トラックが流され、外に出たが私も流されてしまいました。 死んでしまうのかなあと思っている時に、海面にあがったときに、流されてきた瓦礫ともに流されて、コンビニの壁のところで突き当り瓦礫に吊るされた形で生きていました。 右足が折れていました。 何時間後かわからないが、津波が引いて瓦礫が下がってきて、瓦礫につぶされてしまうと思って、瓦礫から出てきました。 コンビニの屋根に上って見たときには自分しかいないのかなあと思いました。 保育所に向かっていったら、火を焚いていた人がいたので、寒くてずぶぬれだったので火にあたらせてもらいました。
保育所の2階に上がりました。 翌日、家がないことが判り、「誰かいないか」と叫んでいたのがおふくろでした。(骨折していた。) 妻は一番下の奏を抱いていましたが、助かったと思ったが、冷たくなっていました。 避難所に奏とおふくろを連れていき戻ってきました。 長女は冷蔵庫とかが食い込んでいて花を出せなくて、壁を壊しましたが、長女も冷たい状態になっていました。 周りの人に手伝ってもらって保育所に連れて行きました。 また戻って侃太を探していましたが、侃太は10日後に自衛隊の方が重機を使って見つけてくれました。
避難所扱いになっていなかったので、食い物がいただけなくて、津波で流されたものを火を通して食べたり、コンビニから流されてきたポテトチップスの袋などをわけて食べたりしていました。 畳3畳ぐらいのところに奏と花を安置して、顔を撫でても砂でボロボロしていて、眠っているような顔で、温めれば生きているのではないかというような感じでした。 公民館の体育館が借遺体安置所になっていたが、勝手に動かさない様にと言って、侃太を探していました。 本遺体安置所が青果市場になっていて、侃太が見つかったら3人一緒に安置して欲しいという事で、3人一緒に並べて貰いました。 悔やみきれない思いでした。 自分で自分を責めるしかなかったです。 学校から沿岸の家に連れ戻してしまったという、自分の判断で子供を死なせてしまったという思いが、悔やんでも悔やみきれません。
大きい支えがいっぱいありました。 東京で修行させてもらった会社の社長の奥さんから電話が入って、社長から何かできる事はないかという事で、軽トラ一台あったら凄く助かるといったら、社長から用意していただいて、流された道具もあったので持ってゆくように言われて、現金100万円もいただきました。 その代わり必ず再開するように言われました。 軽トラックに物資を一杯いただいて避難所を出て工房に寝泊りしていました。 テーラー基金(テイラー・アンダーソンさんは2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波で報告された最初の米国人犠牲者でした。 「テイラー・アンダーソン ’04 記念基金」が設立されました。)で被災者学校に本と本棚を送りたいという事で本棚の依頼がありました。 子供たち3人が教えてもらっていた先生で、やらせていただきました。 子供の生きた証を作り、生きたかったのだったらまだ生きてていいのかなと思いました。 人の思いをかたちにできる仕事だと思えるようなりました。
折角やらせていただくのでテーラー先生の思いを繋ぐような本棚にしていきたいという思いと、テーラー先生の思いが世界一大きくなるようにという事でアメリカ産のジャイアント・セコイヤ、世界一大きく高くなる木ですが、それを一部その本棚に使わせてもらって作りました。 遊具を自宅跡地に建てました。 私らが幸せだった場所を寂しい場所にならないようにという思いで建てました。 「虹の懸け橋」というタイトルにして、震災で流した涙、そのあとに出てくれた虹が人と人を繋いでくれて、今我々が生かされているという思いと、虹はつかめないが、3人の子供らと幸せに生きてゆくことはつかめなくなってしまったが、虹は綺麗だと感じる事は出来るので、感動は感じられると言う事で、感じられる幸せを感じられる人間になっていけば、まだ生きても行けると思いました。 自分の子らが虹になってくれたんだという思いもあります。
土台しかない家に戻ってくるのはつらくて、子供たちの友達が玄関のところに瓶に花がさしてあったりして、それらを見ると切なくなる部分が多くて、来るのが辛かったが、それをこういう場所にしてもらえることは苦痛ではなく楽しく思います。 人が繋がる場所としても使えているので、今は本当にありがたい場所です。
この10年、いろんなことを感じ、学ばせていただけた10年だったと思います。 自分の人生の第一章はあの日で終わっています。 新たな第二章は人が作ってくれていて、10年人の輪のなかで生かされてきたというのが、私が3人の子供を亡くして壊れていない理由でもあると思います。 人の思いを感じて、今、人間捨てたもんじゃないという事と、人間であることに誇りを持てるようになりました。 いろんな人に支えてもらったものとして、支える側になれないものかと新しい目標みたいなものを、今人が場面を作ってくれたりしています。 生きていてもしょうがないと思っていた人間が、今はまだ生きていていいんだと思わせてもらったり、生かされた意味みたいなものを求めているというか探しているといった感じです。