金野靖彦(陸前高田 酒造会社元社長) ・東日本大震災10年シリーズ 避難を語りつぎ、守る命
金野さんは津波で56人の従業員のうち7人を亡くしました。 災害時の避難の重要性を痛感したという金野さん、今震災での経験を語り伝える語り部を育成し、災害から一人でも多くの命を救いたいと考えています。
街の変化がありますが、複雑な思いがあります。 代替え地が高台で、10mかさ上げした商店街には住所名があるが、10m下にはかつて住んでいた自分たちの同じ番地を見ると何とも言えない気持ちになります。 10年前、海から2kmほどのところにあった酒蔵のすべてが津波で流されました。 従業員の安否を確認するため避難所を回って歩きました。 7人が津波の犠牲になってしまいました。 悔やまれるのは解散する時に戻らないようにとか、遠くから来ている人たちは海岸寄りの道は絶対通らないようにとか、もっとはっきり徹底させればよかったなあと思いました。 津波は3mでそれが順次、6m、9mと変わっていきました。 3mという事を聞いてここまでは来ないだろうとは思っていました。 「沿岸住民は・・・」という放送には自分では沿岸住民という意識はなかった。 地震津波の訓練は町内会ではやっているので、会社としてはやってこなかった。
地震が収まって広場に集まってもらって、建物、酒の被害の確認をして問題はなかったので、解散することにしました。 防災無線が泣き声のように変わっていって、避難しました。(地震から30~40分後ぐらいだと思います。) 内陸側の安心感があったなあと思います。 他の酒造会社の支援を受けて震災後半年に酒作りを再開しました。 10月には出荷ができました。 会社は従業員にとっては金銭の繋がりだと思いますが、それだけではなくて心と心のつながりが醸成されて行って、いろんなものが出来上がってゆくものだと思います。 酒が出荷されると地元の人達から狂喜のさたで迎えてもらいました。 商品は社員の思いがそのままそこに乗っかって市場に出て行くものだと感じました。
亡くなった従業員とのことをいつも思っているよとか、かっこよすぎるかもしれませんが、しかし実はそうなんです。 申し訳ないという思いではなくて、何とも言い難いそういうようなものでそのあと過ごしてきてると思います。
2013年に会社のめどがついたので、会社の社長を辞めて、兼務していた観光物産協会の会長に専念することにしました。 アメリカから来ていた女性の支援の方で、外国の方々に話をしてほしいという事で、通訳してもらって話をしました。 それをきっかけにして、別の社会とつながっていたいという風に思いました。 一人の災害に強い人間がいれば周りの人が強くなっていき、周りの人が強くなっていけば地域が強くなる、地域が強くなれば町、市が強くなる、災害に強い国になってゆくことになるのではないかと思いました。
自分の命は自分で守るという人が増えていかないといけないので、講演では強い人間になって行く事と言う風に話しました。 経験したものとしては伝えるという意味合いで取り上げていいんじゃないかと思います。 10年になるので今後これからはどういう形をとって行ったらいいのか考えています。 災害を経験した人としなかった人の差はどうしても出てくる、この差を埋めるという事ではなくて、理解度を広げてゆくことが大切なんじゃないかと思います。 「安全、安心」、「安心、安全」 どっちが先なのか。 「安全が確保されて安心がある」ものだと思うが、安全もいつまでもあるものではなくて、結局なくなって行く運命にある。 「安全」をいつもチェックしておかなくてはいけない。 まず命が根底で、この「安全」はこれで命が守れるのかという風に考えてゆく必要がある。
根底は命を大切にすることで、それに向かってどういう行動をとるのかという事、「大丈夫だ」という事を安易に発しないこと。 「想定外」はできるだけ控える事、想定外という事では我々のレベルではそこで終わってしまう。
地震が起きて避難する時に、何を持ってゆくか、誰と非難するかという事を決めておく、それを強く覚悟しておく必要がある。 自分の命は自分で守るという事ですが、自分の命を守るという事は、結局は人の命も守っていることに繋がると思うんです。