2021年3月17日水曜日

前田三夫(帝京高校野球部)       ・【スポーツ明日への伝言】監督50年目の挑戦

 前田三夫(帝京高校野球部)       ・【スポーツ明日への伝言】監督50年目の挑戦

高校野球夏の選手権大会で2回、春の選抜大会で1回、合わせて3回の全国優勝を成し遂げて、甲子園で通算51勝、今年監督就任50年目を迎えた帝京高校野球部監督の前田さんに伺いました。

昭和47年大学卒業して帝京高校の監督としてスタートしましたが、もう50年経ちました。   大学4年間は公式戦に出たこともありませんでした。   当時帝京高校は指導者がいませんでした。   昭和47年1月からグラウンドに立ちましたが、当時選手は40人ぐらいいました。   「甲子園を目指そう」と言ったら、選手が笑ったんです、なんで夢がないんだろうと感じました。  きつい練習から始まりました。 Ⅰ週間経つと半分になり、次のⅠ週間経つと半分になり、最終的には4人になりました。  当時はサッカーが帝京は強かったので、サッカー部は250人ぐらいで、野球部は4人でした。   4月に正式な監督になりました。   4人に辞められたら成り立たないので、私のアパートの家に4人を泊めて私が食事なども担当して、昼の弁当も作りました。   夕食のおかずを買って3時過ぎに練習をして夕方には夕食を作りました。   そういう生活を1か月やりました。

初めて甲子園に行くのが昭和53年選抜の初出場でした。  その2年後の春には準優勝しました。  強くはなかったので選手を見つけることから始めました。  ほとんど名門校に行きましたので厳しかったです。   ある選手と会う約束をしたが、ちょうど台風で交通が駄目で自転車でびしょ濡れで行ったら、まさか来るとは思わなかったらしくてその子はびっくりしましたが、それに感激して帝京に入ってくれることになりました。  昭和58年の春に池田高校と対戦するが、0-11と大敗しました。  相手の監督は蔦監督でした。  いい選手もいたので優勝を狙っていきましたが、一回戦が池田高校でした。   座談会があり、蔦監督には風格があり、この時の座談会では負けたと思いました。  目には余裕があり、言葉の中には隙が無かったです。

蔦先生の本を熟読しました。  修羅場を潜り抜けた力はそのものずばりだと思いました。 平成元年夏初めて全国優勝、7年間で3回全国制覇となる。  教壇に登るという意志を持たしてくれたのが蔦先生でした。  教員免許を取って教室でのむずかしさ、教室での生徒のグラウンドとは違う表情に出会うことが出来ました。

トンネルズの石橋貴明もピッチャー志望でしたが、彼は人を引き付ける力がありました。 ある旅館で彼がやったら、旅館の人たちもみんな見に来てくれました。   グラウンドでも人を笑わせていて、卒業の時には芸能界に行ったらいいんじゃないかと言いました。  毒蝮三太夫さんのかばん持ちでもいいからという事でお願いしました。  しかし僕はプロ野球の選手になるんだと言っていましたが、或る時TVに出ていました。

プロ野球界ではソフトバンクの中村晃選手、日本ハムの杉谷拳士選手などがいます。   この二人で思い出すのは平成18年に智弁学園と物凄い試合あがありました。  8回終わって4-8とリードされていたが、9回に12-8、その後逆転されて12-13で負けてしまうという試合でした。   9回代打沼田から始まって得点してゆき一巡して沼田がホームランを打ちました。   それまで3人のピッチャーで回してきましたが、次に送り出した投手はストライクが入らず、次をどうしようかと思ったが、中村晃には顔を背けられてまって、バッティングピッチャーをやっていた選手を送り込むことになりましたが、結局逆転負けしてしまいました。  

指導方法はスパルタから自主性、ゆとりという流れでしたが、最近は選手ファーストと言われるが、しかし最終的には指導者がきっちり把握していないと選手は育たないのではないかと思います。  

昨年は東東京で優勝させてもらいましたが、甲子園には遠ざかっていますが、いつかはチャンスがあると思っているので、じっくり焦らずやるしかないのではないかなあと思っています。