北島三郎(歌手) ・「歌の道」を歩み続けて(1)
昭和11年生まれ、84歳、昭和37年にデビューして以来、「まつり」、「風雪流れ旅」、「与作」、「函館の人」など数多くのヒット曲を世に出し、NHK紅白歌合戦のステージには特別出演を含めて51回立たれています。 故郷は北海道の南西部津軽海峡に面した人口4000人ほどの町、知内町です。 北島さんは小さいころから歌が好きで、函館の高校に通っていた時にはのど自慢にも出場、歌手を夢見て上京してからは下積みの生活も長く続きました。 そんな北島さんの歩みを振り返るインタビューです。
NHKホールは3000人程度あり、椅子、壁、ライトもみんな俺の歌を聞いたのかなと思っています。 紅白を出してもらった頃は大先輩がいっぱいいました。 始めて「トリ」を務めることになり、出ようとしたら「頑張って」、という声が聞こえました、美空ひばりさんの声でした。 「大トリ」が美空ひばりさんでした。 映像と歌声がすごかった、流石だと思いました。 オーラというか芸の凄さを感じ、感動させられる歌を歌わなくてはいけないと思いました。 紅白は来年への橋渡しの番組だと思いました。
知内町は生まれ故郷です。 漁師の息子として生まれイカ干しとか、畑いろんなことをしました。 生まれたときから芸事が好きでした。 流行歌が好きで聞いていました。 高校へ行った頃「のど自慢に出ろ」って友達が言って、出たときに司会が宮田輝さんで、「いい声をしてるね」と褒めてくれて、俺も歌手になれるのではないかという気持ちになりました。 東京に行こうと思ったが、長男なので親に反対されると思って、一週間ほど東京に遊びに行ってもいいかと言う事で、東京に出てきて東京声専音楽学校に入学、親に反対されたが本科を卒業すると小学校の音楽の先生になれるから、と嘘をついて説得しました。 おやじから言われた言葉が「俺も漁師は好きではなかった」といったことを今でも覚えています。 昭和30年3月青函連絡船で函館を出発しましたが、おやじが一人で涙を浮かべて送ってくれました。 知内町から函館まで約1時間半、函館から青森まで4時間、青森から東京まで20時間かかりました。(今は4時間でついてしまう。) 遠かったからよかった、近くだったらすぐ帰ってしまったと思う。
歌手募集の新聞広告を見て、行って歌ったら採用という事になりましたが、実は「流し」で、一日300円という事でした。 民謡から、軍歌から、校歌から、歌を覚えて勉強しました。 お客さんとのキャッチボールという事で6年やってきました。 「流し」で一番いやだったのが、或る時「大野」と呼ぶ声がありずーっとついてきました。 案の定、同級生で「歌手になると思っていたが、流しかよ」という一言でした。 修行中だという事で別れたが、両親が流しをやっていると聞いたらどうしようと思ったら、ばれてしまって、帰って来いという手紙を受け取りました。 焦りもありましたが、大晦日に明治神宮にお参りして、「どうぞ歌手にしてください」とお祈りしました。 ギターを弾く相方が体調を崩して、一人でやるようになり、或る時「さっきからあんたの来るのを待っていたんだ」と言っていきなり1000円をくれました。 翌日その人と合う事になり一緒についてきた人が作曲家、船村徹さんでした。 これを契機に船村門下となり、レッスンの日々となりましたが、レッスン料が5000円で大変でしたが頑張りました。
スケート場に連れていかれて、10代から20代の人たちがいっぱいいて、「俺たちが何十年か前に置いてきた匂いがいっぱいある、この道を歩いてゆくにはそういうものをなくしちゃダメなんだ、たまに、置いてきたものを貰いに行くんだ」と言ってくださいました。 なるほどなと思いました。 音楽に関しては、得意なところはいいと、得意ではないところをしっかり歌えと、言われました。 「悲しい寂しい歌を辛さをこらえて笑って歌えと、悲しさが倍悲しく聞こえる」と言われました。
船村さんから譜面を渡され、最初のヒット曲となったのが『なみだ船』だった。
この歌は誰が歌っても俺でなければ歌えないという信念を持つんです、そうして歌います。 普段は浪曲か、民謡か、あとはジャズを聴きます。 ジャズは自分にないもので、リズム、黒人の歌の中にはなんか生活もあります。 ジャズも歌います。 演歌も叫びですよね。
素人の人でいい歌を歌う人がいて、アマチュアの方から教わることもあります。