2017年2月8日水曜日

杉 葉子(元女優)       ・日米の架け橋役の55年

杉 葉子(元女優)       ・日米の架け橋役の55年
戦後間もない昭和24年「青い山脈」という映画が上映されました。
その主演は今は亡き池辺良さん、原節子さん、小暮美千代さんなどですが、その映画でデビューした新人杉葉子さんが注目されました。
1928年(昭和3年)東京に生まれ、東宝ニューフェースに合格、青い山脈の後も多くの映画で活躍されました。
1961年にアメリカ人と結婚して映画界から去りました。
その後杉さんはアメリカやヨーロッパの人たちに伝統文化の茶道、生け花、和食など日本人の心を紹介し続けて世界と日本の架け橋役として力を尽くしてきました。
その杉葉子さんが昨年10月日本に戻ってこられました。

結婚が昭和36年、55年前、アメリカにも、ドイツにも住みました。
父が大蔵省だったので移動があり、小学校、女学校など3年ごとに変わっていて、悲しかったですが、でも今はどこに行っても友達がいます。
ドイツに住んでいるころは旅行が好きだったので、車でフランスに行ったり、スペイン、スイスに行ったりしていました。
池辺良さん、原節子さん、若山セツ子さん、木暮実千代さん、龍崎一郎さん、伊豆肇さんとか、みなさんいらっしゃらなくなってしまいました。
「青い山脈」は当時、大ヒットして当時は映画は娯楽の中心でした。
水着は当時は二重だったんですが、ピタッと体に合うようにして、すっと立つとヌードみたいに見え、ポスターは貼っても貼っても盗まれていました。

私の形容詞は美人ではないけれども杉葉子はと付くのです。(美人ではない、ではないのでまあいいかなあと思っていました)
私は東宝の第2期のニューフェースで、第1期が三船敏郎さん、若山セツ子さん、久我美子さん、相原巨介さんとかいました、映画は楽しみでした。
津山路子さんが 一本か二本主演されました。
成瀬巳喜男さんの心温まる家庭劇なども含めて70本ぐらい出演しているのですが、青山脈の杉葉子になってしまいました。(かぞえから変わるときで 20歳ごろ)
原節子にそっくりだと言われたりして、試験を受けてみたらと言われて、6000人の中から2番に選ばれました。
5社協定があり、それぞれ映画会社の雰囲気が違って東宝は健全な青春物が多かった、他の
会社の方たちとは共演ができない。
東宝は日本舞踊とか謡いもやりましたし、英会話もありました。
寺沢新子、青い山脈は朝日新聞の石坂洋二郎先生の連載小説で皆さん夢中になって、映画権を松竹と東宝が競り合って東宝が取りました。

今井正さんが演技の先生でした。
私が新しい時代の象徴の新子にふさわしいと思ってくれたんだと思います。
最初の青い山脈から68年、5作作った、二作目の新子が雪村いずみさん、三作目が吉永小百合さん、四作目が工藤夕貴さん、五作目は忘れましたが。
(実際は四作目が片平なぎささん、五作目は工藤夕貴さん。)
寺沢新子役の杉さんは卵を売りに、ある商店に入ると学生の池辺良さんが留守番をしていて初めて出会う。(原作は米だったが統制品だったので卵になる)
二人で占い師のところに行くとして、学校の生徒たちの目に触れる、それが戦いになってゆく。
学校が民主化しないといけないという時代に生徒たちが純粋で綺麗な生徒たちでなければいけないということで、偽の恋文を新子さんに渡す。
新子さんは担任の島崎先生(原節子さん)に渡す。
島崎先生はこんな意地悪のことを書くべきではないと、楽しい時代だからどんどん変わるべきですというが、それが騒動になる。
周りは古い体質の人が多い時代で、戦後間もなく書いた小説も素晴らしいし、映画化して大ヒットとしたのは日本人の心がちょっと変わってきたのかなあという気がします。

今井正監督の会に参加しています、素晴らしい先生でした。
当時の男女の交際についてが、議論の中心になっていました。
当時は結婚も見合いが多い時代で、男女が一緒に歩いているということは、という事が発端でした。
私自身は俳優さんとはデートしたことはないです。
原節子さんはそれこそ完璧な美人であり、何処から撮っても美しいし、声もちょっと高い声で今でも耳に残っています。
威張ったりしないが、ダンスをしたりみんなでがやがやするところには来ませんでした。
ちょっとしたロマンス、綺麗な話ですが有ったようですが、これは言いません。
池辺良さんは大人気で、相手役になると恨まれたりしました。

ロスにいたときに日本の文化の紹介役をして、お花の先生、お茶、踊りの先生がみなさんロスにいて、私はお茶は裏千家の免状を持っていて、お花も草月流の師範の免状を持っているし、薙刀もやったし、日本の文化の素晴らしさをますます学びました。
当時の日本食、生の魚など食べるのは野蛮というように思っていて、お寿司の素晴らしさ、日本食の素晴らしさを教わりながら、日本文化の素晴らしさを身につけたと思います。
お手玉の会があり、お手玉をやっています。
徳島の方がいて阿波踊りも習いました。
平成17年に文化庁の文化交流使として任命されました。
ロスでは1年の計画を立てて、大勢来てくださいました。
文化交流使になって自分も学ぶことができました。
息子も孫も日本語はたどたどしいです。
息子は建築会社をやっているので、東京オリンピックのドームの製作の一員になってくれればいいなあと思います。