2017年2月20日月曜日

新井淑則(皆野中学校教諭)  ・見えなくなって、見えてきたもの

新井淑則(埼玉県皆野中学校教諭)・見えなくなって、見えてきたもの
55歳、新井さんは中学校教師になって5年目の28歳のときに突如網膜剥離を発症、34歳の時に視力を失い教師生活を断念せざるを得なくなりました。
懸命にリハビリを重ね46歳のときに中学校に復職、現在も教鞭をとっています。
新井さんんの姿は8年前の平成21年に総合TVで放送したNHK土曜ドラマチャレンジドで俳優佐々木蔵之介さんが演じた主人公のモデルにもなりました。
新井さんが視力を失う前、埼玉県秩父市立秩父第一中学校に赴任してたいたころにその中学校に通学していた新井信宏さんが伺いました。

現在、埼玉県皆野中学校で教師をしています。(2年前から)
国語を1年生3クラス担当しています。
教科書は点字の教科書を使っていますが、生徒は普通の教科書を使っています。
黒板に書くときは定規を使ってまっすぐに書けるようにしています。
生徒の机の天板の裏側に名前を点字で打ったシールを貼っているので、どの位置に生徒がいるかを把握しています。
4月の最初の授業の時に生徒に自己紹介してもらって、ICレコーダーに録音して生徒の名前、声がわかるように努力しています。
自己紹介の最後には、必ずその子のオンリーワンを言ってもらいます。
生徒はみんな違う、生徒ひとりひとり違う、違う事はいいことだと伝えています。
オンリーワンを大切にしてほしいと言っています。

高校生の時に、学校が荒れていた時期で、漠然と金八先生にあこがれていました。
希望していた中学の教壇に立つことができて本当にうれしくて、おもいっきりやっていました。
教師になって2年目にサッカー部の顧問になり、サッカーのおもしろさにはまってしまって国語の授業よりも、力を入れるような感じでした。
28歳ころに、結婚して2年目、長女も生まれ初めての中学3年生の担任となり充実していた時期でした。
10月になって目に沢山小さい虫が飛んでいて、手で追い払っても虫がいるわけです。
次の朝に起きた時に右目に黒い暗幕が降りてきている状態で視界の2/3が見えない状態で、眼科に行ったんですが、網膜はく離と言われ、ほうっておくと失明されるといわれて、大学病院で緊急手術をしました。
視力も落ちてしまいました。

12月には仕事に戻って、片眼が見えずらい状態で仕事に没頭しました。
翌年網膜剥離が再発してしまいまして、ほとんど右側が見えない状態になりました。
片目では十分に仕事ができないので、養護学校に移動して新井先生の健康を保つようにとのことでした。
納得はできなかったが、移動しました。
養護学校に移動して3年目に左目も網膜剥離を起こして、34歳のときに全盲状態になりました。
半年入院して、回復の見込みがないということで家に戻ってきて、ほとんど寝ていました。
知らない間に涙が出てきて絶望のどん底でした。
家族、周りの声かけも受け入れられませんでした。
生きていても仕方がないなあ、死んでしまいたと言うことも思っていた時期でした。
妻に見えない状態だったら死んでしまいたいと言ったら、お父さんだけ死ぬなんてずるいといわれて、家族5人で死にましょうと迫られた事があり、それは出来ない、だったら生きましょうといわれて、踏みとどまりました。

ある日車に乗って連れて行かれたのが、ご夫婦で視覚障害がありながらマッサージを開業されている方でその人に逢いに来ました。
話を聞き凄いなあと思いましたが自分にはそんなこと出来ないなと思いました。
ほかの視覚障害のかたからも話を聞いているうちに、身の回りのことぐらい出来るようにならないといけないと思って、眼科的リハビリテーションに行って訓練をうけるようになりました。
白杖を持っての歩行訓練、点字を読む訓練、日常生活訓練(音声パソコンのやり方など)
を1年間泊まり込みで訓練を受けました。
施設に入って仲間がいたということは、こんな苦しい思いをしているのは、こんな境遇にいるのは自分だけではないということが、大きかったです。

白杖を使って歩けるようになり、点字で本が読めるようになり、パソコンでメールが打てるようになり、出来ることが増えてきて、喜んでいる自分がいました。
見えないということは変わらないが、自分の中で180度近い転換ができたと思いました。
周りの人は次のステップとして按摩、鍼灸のステップに向かって行き、自分はどうしようと思っているときに、県立岩槻高校で物理を教えていた宮城道雄先生(視覚障害がありながら高校で教えていた)が新井さんも工夫と努力で教壇に戻れると声かけをして下さったのを思い出してもしかしたらできるのではないかと思いました。
養護学校への復職は前例がないので、ノーマライゼーション教育ネットワークを宮城先生達が立ち上げていて、復職を支える会を結成されていて、その方たちと一緒に県の教育委員会との話し合いが始まりました。

訓練として養護学校へ行って働くようになりました。
何が出来るのかどういう工夫で出来るのかをずーっと考えて1年間過ごしました。
養護学校に復職することができて、本来の目的である中学校に戻りたいという思いがあり、ノーマライゼーション教育ネットワークを宮城先生達と県に対して交渉してきました。
なかなか叶わずにいて、盲学校、塙保己一学園に移動となりました。
視覚障害のある高校生たちとの出会いがあり、高校生の視覚障害者の現実を知ることになりました。
やがて視覚障害があっても精一杯働いてほしい、社会参加してほしいと言っていました。
本来の目的である中学校に戻りたいという思いがあり、9年間、県の教育委員会と交渉をしてきました。
前例がないということで教育委員会からは拒絶されていました。
8年目ぐらいから、あるかたから趣旨は判るが受け入れ先がないしと頭をさげられて、もう駄目だと思って、ノーマライゼーション教育ネットワークの方たちと県議会の議員会館に行って話を聞いていただき、県議会で取り上げてくれて県知事に投げ掛けていただき、真っ先に手を挙げて下さったのが、長瀞町の町長でした。
なぜ長瀞町の町長が手を挙げてくれたのかと思ったら、以前講演の時に私の話を涙を流しながら聞いて下さったとのことでした。

復職して、人の優しさ、人の思いやりが皮膚感覚で判るようになりました。
中学に戻ったのは46歳でした。
長かったが、自分にとっては決して無駄ではなかったと思います。
生徒に寄り添って、自分の出来ること、役割が新たに発見できたのではないかと思います。
学校は社会の縮図ですが、小学校中学校は障害のある人はいないので、障害のある人と接した方が子供たちにとって意義があることだと思います。
早い時期にいろいろな人に接することが重要だと思います。
見えていた自分から見えなくなった自分に、徐々に時間をかけて折り合いをつけてきたといった感じです。
しっかりとしたサポートがあれば全盲でも教師が出来るということを示して行く、今私が代表をしているノーマライゼーション教育ネットワークを利用して障害のある若い人にも希望を持って貰いたいと思います。
いろんな先生がいて学校だと思うし、それが社会だと思います、もっと多様性があっていいんじゃないかと思います。