2017年2月24日金曜日

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者
61歳、依存症患者(アルコール、ギャンブル、薬物など)を見る医師が多くない中病院で患者の治療に取り組み、休日には患者が集うミーティングに参加するなど患者の心に寄り添い続けています。
依存症患者の苦しみを多くの人に分かってほしいという吉田さんに伺いました。

厚生労働省の発表でアルコール依存症が109万人、ギャンブル依存症が550万人、ぼくが仕事をしているのが、病気だと認定されているうちのほんの一部で大半の人は相談したり治療に繋がる事無く、自分で何とかしようとしている人達なので、医療が関わっている人たちは1割もないです。
昔はアルコール依存症とはっきりしていたが、最近はさまざまあり、薬物にしても、風邪薬、睡眠薬の依存症、行動の依存症ではギャンブル、万引きも増えています。
アルコール、ギャンブル、薬物は男性が多い。
万引きに関しては圧倒的に女性が多いです。
アルコールは若い層から、中年層、高年層、女性は圧倒的に30代が多い
男性は50代以降が多い。
薬物は若い人たちが多い。(40,50代でもいます)
ギャンブルはパチンコがあるので世界で特有のギャンブル依存症がある。
20代から80代まで幅広いです。

カジノ法案の目的は経済活性化、まったく欠落している観点は
①一回依存症になった人たちがどれだけ苦労して回復していることか分かっていない。
②破産するぐらいのダメージを受けた状態で依存症になる。
そんな中で国が作っていいのかどうかと思うと、絶対に作ってはいけないと思います。
今でさえギャンブル依存症に対する国の補助、保証は無きに等しい。
ギャンブル依存症を研究する医者も社会学者もほとんどいない。
依存症になるための環境条件が整ってしまって、繰り返すうちに、脳の機能変化が起きていくので自分の意志、理性を超えたところで病気が発生して行くので、自己責任と言うの
は言われ過ぎだと思います。
自分を責めたりする過程の中で、自分を保つために虚勢を張ったり、演技したり、仮面をかぶったり、壊れないために強く見せないと生きていけなくなっている人たちがとっても多いが、行動は止まらない。

弱い部分、本当はこうしたいという思いがぽっと出てくる時が心をうたれる。
(話しているうちに突然泣き出すとか)
一緒に暮らしている人達は、やめてほしいと思っているが、やり方、対応の仕方を知らないので、強く言ったり、説教したり力で何とか止めさせようとするが、反発してしまう。
そして関係が悪くなってゆき壊れてしまう。
暴力が発生しやすくなり、言いたいことも言えなくなる。(対等の関係が消えてしまう)
精神科を受診するハードルが高すぎる、と言うメンタルなところが強い。
依存症をきちんと見れる医者が圧倒的に少ない。
アルコール依存症、薬物依存症に対して関わりたくないという様な、先生が多い様な気がします。

大学病院などでは依存症を専門に見る医者がほとんどいない。
精神科を専攻しても依存症ではないほかの病気を専攻する人たちばっかりになる傾向があるのではないか。
依存症は行動を繰り返すことで脳の神経ネットワークを作ってしまうので、医療も繰り返し繰り返し、脳が健全になって行くような神経回路を作ることをやっていかなくてはいけない。
医者はサポートする立場だと思っています。

本を読むのが好きで、精神科医になろうとしたきっかけは加賀乙彦(精神科医で作家)の「フランドルの冬」にあこがれてしまいました。
医者にはなりたかったが、注射もいやだし、血も見たくはなかった。
「フランドルの冬」が精神科医を選ぶきっかけになりました。
大学受験は一浪して、合格して、合格することは一人の一浪の人を生んでしまうことだとも思って、素直に喜べなかった。
泣きながら不合格を電話で報告している姿を見ました。
精神科医を美化して、現場に入るが、いろいろな現実があり、理想を実現化するようなことはなくてギャップを感じるようになりました。
患者を入院して閉じ込める、しかし自分は自由にできる、何回か経験してゆくと徒労感が強くなってきて、自分のやっていることが意味のないものと感じて来て、仕事に行くのがいやになってきて、医者の仕事を辞めてもいいかなと思うようになった(5年目ぐらい)

帰る時に患者の目と合ったがおやっと言う感覚があったが、そのまま帰り翌朝出勤するとその人は川に飛び込み亡くなっていた。
自分の患者が亡くなったことにショックを受け、病院を辞めて三重県に行きました。
たまに街の診療所にいきながら農業をして、医者とは関係ない暮らしを10年ぐらいしました。
天気など自分ではどうにもできないこと、理屈ではなく経験がしみこんだ時期だったと思
います。
人も野菜も動物も自分以外のものは変えられないと言う事の大切さ、(変えられるという思いから悲劇が生じる)が一番大きな教訓だったような気がします。

医師免許を持っているのでもう一回使うか、完全にやめてしまうか、決めようと思った時期があって、医師としてもう一回使えるのかを確認したかったので一週間の研修を依頼した。
前の先生にたまたま出会って戻ってくるように言われて15年前に徳島に戻ってきました。
アルコール依存症に対するアメリカでの研修に行きました。
依存症を持った人、良い悪いいろんな側面を持っているので、辞める辞めないではなくて、トータルに見てその人がどう生きていくかということの方を大事にする治療者が多かった。
回復した人たちが資格を取ってカウンセラーだったり医者だったりする訳で、日本では考えられなかった。

依存症からの回復の一番大きな潮流は回復を始めた人がいて、その人の存在がまだ回復出来ると思えていない人たちのお手本になる。
その循環が大きな回復の潮流を作ってきている。
サポート役としての我々の力はとても叶わない、健常者が持ちえない影響力を持っている掛け替えのない存在だと痛感します。
失敗ととらえるからネガティブな経験になる、人間は経験だらけの生き物、失敗、成功という言葉で表現すること自体が間違いを生む様な気がします。
努力したり、毎日コツコツとやらなければいけないのは当事者で、我々はサポートしていく役割だと思っています。
検事長をしているかたがいて、その傍ら資格障害者のマラソンの伴走者をしていて、そういった事をダルクでの話をしていました。
主人公は障害者でその人は伴走者、伴走者は自分に与えてくれる物の多さを凄く語っていて、僕の仕事もまさにそれだと思いました。
子供の自転車の補助輪みたいな、やがて必要無くなる支えみたいなものになればいいと思っています。