2017年2月10日金曜日

寿福 滋(カメラマン)    ・“杉原千畝”の世界を撮り続けて

寿福 滋(カメラマン)    ・“杉原千畝”の世界を撮り続けて
寿福さんはナチスドイツの迫害を逃れるユダヤ避難民に日本の通過ビザを発給した外交官杉原千畝の業績と避難民のその後の生き方を写真で追い続けて来ました。
昨年横浜市の歴史博物館で開かれた「杉原千畝と命のビザ展」は好評を博しました。
平成23年には写真集「近江の祈りと美」を発表し、滋賀県文化賞を受賞しています。
寿福さんが杉原千畝の世界にかかわったのは30代の後半アウシュビッツに出会ってからでした。
当時の杉原千畝ビザリスト、杉原千畝が発給した避難民が記されたリストによると杉原ビザで世界に渡った避難民は6000人、その子孫は3万人とも言われています。
寿福さんは避難民の当時と今を伝える事で平和の有難さを伝えたいとおっしゃいます。

昨年横浜市の歴史博物館で開かれた「杉原千畝と命のビザ展」は熱気があって土日は物凄く人が来られました。
1万3000人を越えたらしくて博物館でもびっくりしたそうです。
泣きながら見る人もいたり、毎日会場に来る子もいたというような、たくさんの出会いがありました。
人の目を見ていると、うなずきながら私の話を聞いてくれて、一人ひとりに話をするような感じで良かったです。
杉原千畝の展示をやるのはアウシュビッツがきっかけでアウシュビッツには3回行きました。
有刺鉄線を張ったりして出来るだけその感覚に入ってもらおうと工夫して展示しました。
感想ノートにスイスから来たとか、ドイツからも来て出来ればドイツで開催してほしいという内容もありました。
小学校6年生が150人来まして、
「私は小さい時から戦争などの恐ろしいことが大嫌いで避けてきました。・・・でもそれでは何も始まらないと思い、杉原さんのように立ち向かっていかなければならないんだ」と書いています。
「私は展覧会に行くまでただのいい人だと思っていたが、今日沢山の資料写真を見て、一人で6000人の命を救ったことは世界を救うことと等しい素晴らしいことをした人なんだなあと思った」といった内容が書かれていました。

私は横浜で発掘をしていました、10年あまり下宿していてカメラマンとして勤めていました。
横浜で展示会ができればいいなあと思っていました。
氷川丸でユダヤ人を運んだと知って、まだここにあるんだと思いました。
杉原ビザが世界記憶遺産にノミネートされたということもあり、横浜でやろうということになりました。
小学6年生の頃、「夜と霧」というフランクルの本があり、先生が朗読してくれて、「収容されている人たちが世界ってどうしてこう美しいんだろう」という場面、夕陽を見て感動している。
だけど収容されているから明日はいなくなるかもしれないがそういう風景を見て感動している場面があり、それだけは子供の中の心に残っていました。
琵琶湖の風景は朝陽も夕陽も美しい、そういうふもとで育ったので、小学6年の時読んでもらった夕陽ががちっと残っていたんだと思います。
ポーランドに行って、子供のころ思っていた美しい夕陽をみたいと思っていたが、アウシュビッツに行くと現実は足が重たくなるほどになり、アウシュビッツのショックを展示してみようと思って、アウシュビッツの展覧会から始めるようになりました。
その後杉原さんのことを知って、行って、いろいろ繋がって行くわけです。
本を読んで杉原さんがユダヤ難民を助けたと知って、ユダヤ難民たちの足あとを訪ねてみようと思って、聞いてゆくうちにいろいろ人とのつながりで繋がって行きました。

リトアニアには6回行っていますが、おばあさんが歩いていて、声をかけてきてにこにこ笑っている。(やっと会えたという様な雰囲気)
私の手の甲を触って次に私を抱きしめてきました。
これはすごい歴史の中にいる、多分杉原さんのことを知っていて、杉原さんにお礼はできないけれども、もし日本人がやってきたら50年も待ち構えていて、お礼を言おうと思っていたんだと私は解釈して、とことん追っかけてやろうとしていろんな人に聞いて回りました。
ある人からニューヨークにいるナンバーワンのお坊さんを紹介してもらって、助けられた少女シルビアさん(ワシントン大学の先生 70歳を超えているが当時は6歳)にたどり着いて、どんどん出会いがあり、話が進んで行きました。
ニューヨークでもいろいろいじめとかあり、「良いことをしよう」というコンテストをやっているとシルビアさんが言ってまして、杉原さんの写真がありました。
コンテストの1位が1500ドルということで、シルビアさんはニューヨークの高校生に杉原さんというこんな人がいて私も助けられたと話し、私たちは正しい事をしようということで、質問として
①これまでに正しいことをするという選択に迫られたことはあるか?
②これまでに自分が誇りに思えるような決断をしたことがあるか?
③間違った選択をしたけどもこれまでに何かを学んだという経験があるか?
一生懸命エッセーコンテストに高校生が参加したそうです。
シルビアさんにとっては杉原千畝の精神だと受け止めている。

リトアニアからシベリア鉄道を経由してウラジオストックから日本の敦賀に来る、敦賀から神戸、横浜を経由してユダヤの人たちは上海、北米に渡ったが、その経路を追いかけました。
シベリア鉄道は昔のままで1週間かかって行きしたが(当時は2週間かかった)、私は好きでしたが、避難民の人たちは苦難だったと思います。
吃驚したのは難民の方がお金を替えるために腕時計を売っていたが、その時計を私が撮影していたら、20分間動き出しました、動き出したので1秒ごとにシャッターを押しました。(何か奇跡のように感じました)
1940年代横浜の2流、3流のホテルはユダヤ人でいっぱいだったという。
展示会では会話型、参加型の展示会でいろいろ知らない人同士の会話があり良かったと思います。
コソボ紛争のときにも難民が一杯いたりするが、戦争の姿のなかに子供達が遊んでいる元気な姿があり、こう云う子供たちがいるのならまだこれからの難民問題も救えるのではないかと考えました。

文化財、仏像が専門ですが、技術的には長くやっていればなんとかなるが、土門拳「死ぬことと生きること」を教科書の様にして読みました。
リアリズムを徹底的に追求した方で、画面の外に何を込めるか、写真に何かを込めているか訴えたい気持ちを暗示するような写真でないと駄目だというふうに私は読み解きました。
仏像を撮るときにも二つの顔が隠されていると思います。
不動明王、右の写真は怖そうな感じ、左の写真は少し温和な感じ、の写真。
昔はろうそくの明かりでみていたと思うが(右の写真)、私たちは上からの照明で見ている(左の写真)。
ろうそくと同じような照明で撮影すると全然違う。
仏師、建築家もろうそくの光のなかで、拝んでもらって悩みなどを訴えてたんだろうと思うわけです。
文化財の撮影でも昔と一緒の光で撮りたいと今考えています。
杉原さんの写真を撮っていると一本の糸でつながっているような感じがします、だからいつも新しい発見と感動があるんでしょうね、生きている限りは続けるしかないです。