2017年2月11日土曜日

山崎恭弘   ・爆心地にたおれた弟よ、姉よ、友よ

山崎恭弘           ・爆心地にたおれた弟よ、姉よ、友よ 広島での被爆体験を語る
広島に生まれ育った山崎さん 83歳昭和20年8月6日幼い弟と姉を原爆で亡くしました。
翌日兄弟の遺体を探しに市街地に入った山崎さんも被曝をしました。
戦後関西の大学を出て家庭をもった山崎さんは自身が今住んでいる兵庫県川西市の小学校などで 10年ほど前から原爆の語り部として活動をしてきました。
定年退職した後地元の小学生に被爆の体験を語るようになりました。

同級生の多くは被爆後連絡が取れなくなっていました。
小学校の名簿の復元の活動も始めました。
アメリカのオバマ大統領の広島訪問、平和公園で何を見るのか、どのようなメッセージを発するのか,
TV中継に耳を傾けていました。
やっと来たかとも思うし、よく来たなと思いました。
プラハで言ってから大分年数がたちましたから。(2009年)
5月27日午後5時30分ごろ広島平和公園に大統領専用車で到着、原爆資料館におよそ10分間見学しました。
その後原爆慰霊碑に歩いていき白い花輪をたむけました。
その後書簡を述べる。
「71年前非常に晴れた朝に、空から死が降ってきて世界が変りました、閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。
これは人類が自分自身を破壊する手段を示したものです。・・・」
17分に及ぶ長いものだった。

通っていた広島高等師範学校付属中学校の生徒たちは広島市郊外での農村で労働をしていましたが、体調が悪く自宅に帰されました。
能美島で静養することになりました。
二人の弟は広島の自宅に戻ってきました。
そして運命の8月6日を迎えました。
外が物凄く明るくなりました。
広島市の方をのぞくと火の玉がぎらぎら燃えていて、火の玉として浮かんでいました。(数十秒)
キノコ雲になってそれをじーっと見ていました。
夜になると、広島市の方は真っ赤に見えていて、何か大変なことになっていることが判りました。
翌日広島に行こうということで、おにぎり、お茶、薬、包帯等を持って父と共に2歳の弟を母親が背負っていきました。
建物は無かったです。

死体が河岸にあるのを見て、とても駄目なのかなあと思いました。
家のところについて、入ったらすぐに真っ黒い遺体が二つ転がっていました。
弟は小児まひで足が悪かったので、車輪が近くにあり小さいほうの遺体が6歳の小児麻痺の弟でもう一つは世話をしていた姉で有ろうと思いました。
もう一人の弟は見つからず、隣の土蔵が焼け崩れており、父と一生懸命掘っていると、小さい骨が出てきて、土蔵の赤土が高熱で溶けてガラス状になっていて頭蓋骨の裏に食い込んでいました。
骨の大きさなどから4歳の弟だと判りました。
それらその骨を持ち帰りました。


「・・・この広島の真ん中に立ち私たちは思いを馳せます。
子供たちの苦しみもを思い起こします。
声無き叫び声に耳を傾けます。
私たちの心を変えなければなりません、戦争に対する考え方を変える必要があります。
紛争を外交手段によって変えることが必要です。
広島、長崎が核戦争の夜明けではないということを思い、もっと私たちが道義的な目覚めの始まりだったということを広島、長崎が教えてくれたのです。」(オバマ大統領の演説一部)

資料館を見て、献花をして、ドームを見て演説をしてアメリカの大統領として出来ることをこの人はかなり誠実にやったと思います。
原爆資料館にはいるかどうか直前までは判らなかったが最初に入りましたが、見ることが今回の広島の眼目なので、資料館を見て、ドームを見て、原爆の話を聞いたりしていたことはかなり違った印象をあの人に与えたのではないかと思います。
就任時のプラハの平和宣言から、任期の終わる最後の年になって、あの人にとっては完結すると思いますが、アメリカという核大国がどうなってゆくのか、世界をどうリードできるのかと言うことは今一つ読み切れないところがあるが。
核廃絶を願うものとしてはまだ危惧はいくらでもありますが、オバマ大統領としては、核軍縮に向かって言っているというのは明らかに判りますので、向きとしてはいいと思いました。

戦争をやっては駄目なんだと世界は考えているということはいいことだと思っていて、一番良い事は戦争をしないことだ、どんな理由があろうが戦争をしないことだと思います。
オバマさんが戦争に対する話をしたことは共感を覚えます。
罪、原罪 あの人たちには一生のしかかることだと思っていて、原爆を落とした罪は一生ついて回る。
作ってよかったと当時は思ったかもしれないが、あとでは皆後悔しています。
オッペンハイマーは公ではいけなかったとは言わないが、晩年は凄く後悔したような言い方はしています。
オバマ大統領等がここに来たということは、罪を償う気持ちを私たちはくみ取ることはできると思っています。

折り鶴を持参して原爆資料館に出迎えた小学生に託して帰りました。
「偵子の像」を見ていましたが、そのことを知っていて、折り鶴を作ったんだと思います。
自分が生きている間は核廃絶は出来ないかもしれないが、次代の子供に託すという意味があったんだと思います。
子供は未来を背負うものという認識で見ているんだと思います。
2006年頃から母校の同級生の消息を確かめる活動を開始、同級生の名簿を作りたいと思って、始めました。
父親が几帳面で写真を撮っていて、40数人が写っていたので、まずはその名前の記憶をたどりながら始めました。
人は二辺死ぬ、本当に死んだときに死ぬ、記憶から失われたらもう一辺死ぬ。
せめて名前ぐらいははっきりさせて、この人はこの学校にいて、生きていた証しを残したいと思っている。

放射能を受けた時点から何年もたって、DNAとかの変化が起きて障害がいろんな形で出てくる。
当初はうつると言われた。
被曝を隠していろんなところに行った人は多いですね。
被曝して心も傷つける。
オバマさんが来たということが彼等にどの程度の慰めになるか分からないが、ひとつのステップではありましたが、亡くなった人に確かにあなたの死は無駄ではなくて、世界はこんなふうにどんどん良くなっていると言えないのが、一番悔しいところです。
故人に対する感情はなかなか一朝一夕には消えない、隠れた芯のように残っている。
戦争責任、裁判で裁かれた人が持っている戦争責任、そういうものとは別に、その当時日米戦争を始めた時の一般の人の戦争責任はあると思う。
当時12歳だった私なりの責任はあると考えています、償うためにやることが今やっている語り部であり、亡くなった同級生の名簿をつくったりするのが自分の責任かなあと思っています。