保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和から平成へ(第38回)
今までの天皇の中では一番長かった、62年と2週間。
昭和の初期と60年代ではまったく違って、生活環境、社会環境、人々の意識も違う。
昭和50年代後半から60年代、この時代は科学技術が進んだ。
医療技術が進むことで高齢化社会が来るんじゃないかといわれていた。
昭和60年3月筑波で科学万博が開催される。
「人間、居住、環境と科学技術」がテーマ。
昭和60年8月12日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落、520人が死亡する事故が発生。
昭和初期は一汁一菜のような時代であったが、昭和の終わりごろは飽食の時代になって残したものを捨てる時代になり極端に変わった。
エネルギーも豊かになった。
昭和61年4月26日にチェルノブイリ原発事故が発生、悲惨な形になる。
昭和63年3月13日青館トンネル開業(23kmが海底)、4月10日 瀬戸大橋の開通。
青館トンネルは昭和39年着工から24年、7000億円、青森函館が半分の2時間になる。
日本がすべて陸続きになる。
豊かになる、便利な社会になると、心の空虚さと比例するような関係になる。
精神的飢餓状態ができ、宗教、宗教に名を借りた動きがある。
オウム真理教、昭和の末ごろから動きがあり、平成になって大きな事件を起こすが、精神生活の飢餓感からこういった事件を生んでいった原因だと思います。
バブル経済、お金が湯水の如く生活の中で自由に膨れ上がって、お金をめぐっていろんなドラマが出て、人間の欲望がお金に果てしなく追従してゆく。
昭和63年6月18日 リクルート事件発生、政界の中枢部に広がってゆく。(未公開株の授受)
7月には中曽根前首相、安陪幹事長、宮澤蔵相への未公開株の譲渡が判明。
やり方が巧妙になっていった。
昭和61年に天皇在位60年記念式典が行われる。(85歳)
昭和62年4月29日に祝宴があって、体調を壊して、国民の目にもはっきりとする。
がんだということが判る。
10月には沖縄を訪問する予定だった。
東西冷戦の中にあって、沖縄を米軍の中に基地として貸与するという形の意思表示は天皇も行っていたので、天皇にとっては思うことが多々あって沖縄の人を何とか励ましたい、沖縄戦では犠牲者が多く出て、そういうことを含めて沖縄の人と直接接して、気持ちを伝えたいということはあったと当時報道されていました。
「思わざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」 と詠っている。(昭和天皇)
昭和63年天皇の公務は皇太子が代理を務めるようになる。
生前退位はその時の思いがあったのではないか。
あの大戦自体が何よりも痛恨事だとおっしゃりながら、目に涙を流していたという記者からの話を私は聞いて、あの戦争というものをどれほど悔やんでいたか、国民に迷惑をかけたという、私が選択した苦しさを、歴史に詫びるというふうに私は解釈しました。
8月15日に全国戦没者追悼式に出席され、いつ倒れるか判らないということでそばに侍従のひとが立っていました。(昭和天皇の最後の肉声となった)
9月から療養生活を続け、闘病生活が明らかにされる。
天皇は840首を公開しているが、
「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」 最後の歌
あかげら=きつつき 叩いて次の木に移って行って、叩いてまた次に移って行って音が遠ざかっていく、それがさびしく思える、というような内容ですが、
自分の代はいよいよ終わり、次の代、次の代に変っていくんだと、そういったような気持を詠っているんだと思います。
昭和64年1月7日午前6時 昭和天皇崩御。(87歳8カ月)
新元号発表 「平成」 小渕官房長官発表。
1月9日 皇位継承発表。(第125代 55歳)
戦争というものが昭和の時代の20年、戦争という時代だったが、どんなような形であれ戦争は避けるべきであると、戦争は兵士が鉄砲を撃ったりしてお互いに殺戮を繰り返すということだけではなく、戦時体制は平時とは考え方、モラルが違ってしまうので、平時ではとても許されない行為が戦時には英雄的行為にもなってしまうので、社会が病理を抱え込むんだと思います。
一度病理を抱え込むと戦争が終わっても治らない、社会全体が病理現象を抱え込む。
そうすると人間が序列化される、兵士として役立つという人が一番上に立って、身体の弱い人とか、軍事には役立たない人は別義の状況に置かれる。
モラルが変わっていくことに対するおかしさ、異様を気付くべきだと思う。
国民一人一人も問題があり、体制順応、空気に左右されやすい、自立する、自分で物を考える、自分で判断をする、そしてその生き方を貫くことが大事だと思います。
空気、社会の流れだけで動いていると、自分が無くなってしまうのではないか。
自己を確立することが必要だと思います。
それが昭和を振り返っての教訓だと思います。