平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)・祖父、平櫛田中が残したこと
*今日でブログ投稿開始日から丸6年が経過しました。
最初の物は ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子さんの
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/03/83.htmlでした。
もうすで渡辺和子さんも昨年 2016年12月30日に89歳でお亡くなりになってしまいました。(ご冥福をお祈りします)
今日から又新たに7年目に入り、一歩一歩進んで行きたいと思います。
よろしくお願いします。
平櫛弘子さんは1940年生まれ、彫刻家平櫛田中(でんちゅう)の孫。
107歳で亡くなった祖父田中のそばに長年いて、平櫛田中の人と作品作りを見てきた方です。
平櫛田中は1872年 明治5年2月23日、岡山県に生まれました。
21歳で彫刻の道に入り、「鏡獅子」、「尋牛(じんぎゅう) 」をはじめ数多くの作品のほか、彼の人生観を表す言葉を書に残しています。
100歳を前に書にしたためた言葉、「今やらねばいつできる」、「わしがやらねば誰がやる」、「60,70洟垂れ小僧」、「男盛りはこれからこれから」等、まさに不屈の人 平櫛田中の真骨頂と言えるのではないのでしょうか。
平櫛田中生誕145年の年に当たります。
大きな楠の木があるが、30年分の木を亡くなるときには持っていて、徐々に作品を作るためには保存して乾かしておかなければいけないので、晩年に買った木です。
横山大観と武原はんさんを作ると言っていました。
横山大観の鋭い眼が印象的で、眼を作りたいとよく言っていました。
はんさんは美しい顔、独特の髪の結い方、お化粧の仕方、着物の着方などあれを残したいと言っていました。
21歳で大阪の中谷省古に弟子入り、彫刻をし、25歳上京し、高村光雲の門下生になり、日本美術界の指導者岡倉天心に認められ72歳で東京美術学校(東京芸術大学)の教授に招へいされ、90歳で文化勲章。
家が貧しくて15歳で大阪の小間物問屋に丁稚に入った。(美術に関係あるようなところ)
その前に貿易関係の工芸品を扱っているところに丁稚して、主人が文楽好きで、すっかり文楽好きになっていました。
上手い繋がりが付いてきて、岡倉天心が明治22年に創刊した本も丁稚の身で買って読んでいました。
縁があって中谷省古さん(人形師)の次男の球次郎さんが東京で高村光雲に出入りしていて、木彫をやりたいのなら東京に行くように言われて、球次郎さんに連れて行ってもらった。
26歳ぐらいになっていて、門下生と知り合いになれたのがよかったです、それが運命を決めていったと思います。
自分の天性とそれを自分でつかみとって行く。
谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で「臨済録]の提唱をしていて聞いたりしていて、その縁で寺内銀次郎さんという表具師(横山大観とかの日本画家の表具師)とも知り合い、岡倉天心も来ていた。
高村光雲さんの門下生と三四会という彫刻の団体をつくって作品を出品したりしていました。
30歳で「唱歌君が代」という作品を作って、宮内庁買い上げになって一番最初の銀杯を取った作品でした。
明治40年に結婚。
「貧乏は我慢できるが、子供に死なれることほどつらいことはない。」
「涙が出なくなるのに3年かかる」
長女、長男、次女(私の母 隆子)が生まれる。
日本彫刻会を天心が作ってそこに入る。
代表作を発表する。明治41年の第一回の時には「活人箭(かつじんせん)」を作って天心に批評していただき、想像で勢いを出すようなものでないといけない、矢がさーっと行かなければいけないといわれて、取った方がいいといわれて弓矢を取ってしまって、今はそれがイタリアに有ります。
明治43年には「法堂二笑」を作りましたが、天心からは文句なしによろしいといわれて、神奈川県の原三溪さんに収めましたが、戦争で三溪園が焼けたりしていまだ作品の行方は分かりません。
第5回の日本彫刻会に出そうと思って3作品があり、「尋牛(じんぎゅう) 」と「灰袋子(かいたいし)」、「豎指」、天心は「尋牛(じんぎゅう) 」が一番いいと言っていました。
十牛の最初の物。
天心は9月2日に亡くなってしまったが、完成した尋牛をお棺の前でお見せした。
第5回の日本彫刻会に出したが、それも今はどこへ行ってしまったのか分からない。
それが昨年出てきて、この館にあります。
後年作った尋牛とは違います。
天心先生が亡くなってしまう(大正2年)ということで急いで作ったので、塑像的です。
木彫ではあるけれども粘土のような作風です。
谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で提唱をしていて祖父も聞いたりしていて、大正3年に「禾山笑」を作る。
西山禾山(かさん)は禅の心とはと問われて、「日常生活そのもの、心を整えて毎日の仕事を一生懸命やること」
「まさに窮するところ無くして、その心生ぜしめ」
「邪心がなしにして、一心不乱に作品をつくる心を養いなさい」と言うこと。
「守拙求真」 自分の製作の根幹にあるとよく言っていました。
自宅にいないと思うと染井の墓地(天心)に行っていたということで仕事も手に付かなかったような状態だったようです。
その後塑像部で3年ぐらい塑像の研究ばかりをしていました。
塑像を作って粘土から、石膏どりしてそれをもとにしてそこから木彫にするわけです。
売るものは作らなかったので、貧乏な時期があり、塑像の研究を終わりにして、その後それが「転生」(鬼の像)に生きてくる。
苦しい結果、自分に対して塑像の勉強をして、自分には向いてないとわかって一つ通り越したと、そのことを多分「転生」の作品にしたと思います。
周りの援助のもとにアトリエを作り、住まいも作る。
翌年に関東大震災があるが、壁にちょっとひびが入った程度で建物は痛まなかった。
「鏡獅子」昭和33年の構想から22年かけて出来上がる。(モデル 6代目尾上菊五郎)
尾上菊五郎さんの裸の写真が60何枚有ります。
5つぐらいのヒノキで御寄木にしてかすがいでとめて 漆を塗って金泊をして、彩色しました。
費用もかかって、借りたりして、その時母は病気で居たので大変でした。
「今やらねばいつできる」
「わしがやらねば誰がやる」
「60,70鼻たれ小僧」
「男盛りは百から百から」
弟子で辻晋堂と言う人がいて、アトリエの「今やらねばいつできる」という言葉がかかっていて(アンドレ・ジイドの本の中にあった)、それを見て田中が広めて行った。
祖父は彫刻家としては明治、大正、昭和を生きてその時代背景の中で製作した人だが、子供は50歳台で亡くなり、残った母は関節リュウマチで歩けなくなってしまって、祖父は母のしもの世話などもやっていて、私たちにも優しくしてくれました。
結婚した当時は柳行李に一杯参考になる新聞記事を切り取り、晩年にも参考記事、興味のある記事を切り取っていました。(好奇心旺盛な人でした)