2016年10月8日土曜日

多川俊映(興福寺貫首)         ・「菜根譚(さいこんたん)」を心の道しるべに

多川俊映(興福寺貫首)         ・「菜根譚(さいこんたん)」を心の道しるべに
興福寺は1300年余りの歴史を誇る古刹です。
平成元年42歳の時貫首に就任し、現在62歳です。
菜根譚が世に出たのは今から400年余り前、中国で明の時代に官僚を務めたとされる、洪 自誠が表したと言われています。
日本でも江戸時代の後期に刊行され貴重な人生訓の語録として今日まで読み継がれています。
若いころから手近に置いて読んでいると言う多川さんに菜根譚の魅力を聞きます。

洪 自誠と言う人が著者ですが官僚だったと言われ官僚は経がベースになっているが、中年以降になると儒経だけでは飽き足らなくて、道教、仏教の3つを融合させ自分なりに切れのいい短文で書き改めて、それが357集まっている。
大人の人生作法、がいっぱい詰まっている、これが菜根譚の魅力だと思います。
時代は変化するが人間はそう変わるものではない。
君子としての心のあり方、身の処し方、実行すれば実利が有る。
儒教は私達が社会で生きて行く上で、人様と付き合わなくてはいけないが、人様との付き合いの仕方、社会の中の人間はどうあるべきかというような事を語っている。
道教は、大宇宙の中大自然の中の人間はどうあるべきかという立場だと思います。
仏教は、大宇宙の中大自然の中の社会の中で私達が生きるが、人間の心は一体どういうものかを、端的に教えている。

「悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るは、悪中(あくちゅう)にも尚(なお)善路(ぜんろ)有り。
善を為(な)して人の知らんことを急(いそ)ぐは、善処(ぜんしょ)即(すなわ)ち是(これ)悪根(あっこん)なり。」
いけないことを私達はするが、人に知られると困るが、その人の心の中に善の方向性、よくなってゆく芽がその中にあると言っている。 隠す気持ちの中にいい方向性が芽生えている。
良い事をするが、人に早く自分のいいことを知ってもらいたい。
しかし、社会はそう簡単にはそうですとは言わない、無視したり、評価されない。
そうすると、なんだと一瞬思うその中に、悪根が芽生えてくる。
良い悪いは線引きがしっかりしているわけではない、しきりがあいまい。
「無記」、善と悪の間の領域が有る。(仏教)
東洋の人間観。

「人の小過を責めず、人の陰私をあば発かず、人の旧悪を念(おも)わず、三者をもって徳を養うべし。 またもって害に遠かるべし。」
他人のちょっとした間違いを咎めない、人の隠しておきたいことを暴かない、人の古い間違いをいつまでも記憶しておかない。 この3つを日常生活で行えば徳が養われてゆく。
又そうすると人に恨まれることはない、実利になる。
繰り返し読んで日常生活に反映していきたい。

昭和22年興福寺の僧侶の子息として生まれる。
菜根譚と出会ったのは20代の後半、仏道の修行に励んでいたころ。
大学を出て或るお寺にお世話になる。
母が入退院して、家事のこと、修行のことが有り数年は記憶にないほど忙しかった。
エッセ-などをスクラップにして、人生の参考になるものはないかと探していたが、そういった時期に菜根譚に出会った。
読んで行くとぽつぽつ自分にフィットした内容が有り、今も読み続けている。
興福寺は唯識仏教で、唯識的な読み方をやっているんだと思います。
唯識仏教と菜根譚は矛盾はしません。
何かをベースに持っていないと読んだことにはならないと思う。

唯識は人の心の仕組みを自分では意識できない奥底にまで踏み込んで解析し、人の有りようを洞察しています。
すべては人の心が作りだしているという考え方。
識は或る意味心と置き換えてもそんなに間違っていなくて、唯心(唯心だけが有る)
肉体も物質だが心の要素に還元して自分の問題として考える、自然もそういう事にする。
心も自分で自覚できる領域と自覚できない無意識な領域(深層心理)に分かれる。
4~5世紀の段階から無意識の世界が有ることを捉えている。(唯識仏教)
一人ひとりの世界、見ている世界が違う、自分の心が作り上げた世界を見て、この世界はこうだと見ている。
私が見る掛け軸と、貴方が見る掛け軸の考え方、認識が違う。

愛犬家が犬を連れて散歩するが、犬の描き出している世界、飼い主が描き出している世界は全然違う。
嗅覚は人と犬では全然違う、犬は嗅覚は頼りに、人は目を頼りに散歩している。
人間同士も同じことで 一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している、(人人唯識)
日本人はほぼ単一民族で皆同じだと言う様なところから出発しているが、唯識の立場からすると、皆それぞれの世界を持って生きているので違うわけです。
同じだと思っている人が、よくよく話を聞くと違う、違いについてナーバスになり、場合によっては争いになる。
違うと言うところから出発すると、こういうところが同じだと言う事になると親密になる。
唯識はそれぞれの人が描いた世界を見ている、持っている。
手がかりになる一つが菜根譚です。
何度も読んで自己改革する。

「小処(しょうしょ)に滲漏(しんろう)せず、暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)せず、末路(まつろ)に怠荒(たいこう)せず。 纔(わず)かに是れ個の真正の英雄なり。」
ちょっとしたところだからといって手を抜かない、人の見ていないところでは知らんぷりせず、欺かない、(暗中の一番典型的なのは心の中 自分自身が見ている 神仏が見ている)
思う事こそが行為、(憎いから殺してやると思うことは、社会的には問題ないが、心の問題としては大変大きな問題をその人は抱えたことになる 難しいが心のコントロールをする)
暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)しないんだと言う事をやると言う事です。
難しいが、自分なりに少しでもなってゆく、その中に豊かな心が育まれてゆく。

自分が他人よりも劣ってると思うとはなはだよろしくないということは誰でも経験するものだが、端的に言うと人と比較しないと言う事だが、むずかしい、自分を変えてゆく事は言葉では簡単だが、本当に変えるのだと思った時に、ある種の覚悟が必要、誰もが持てるものです、仏教の経典、菜根譚などを読んで心に蓄積して、そういった道具を使いながら変えてゆく。
明日からではなくて今からこうするんだと言う生活態度を変えてゆく。
視点をずらせば捨てたものではないと言う様な事も沢山ある。
「空」 時々刻々変化するが、我々も変化するものであり、苦労はたえないが承知の上で生きているので、どうせ生きるなら実りあるものにしたい。
どうするかというとそこで宗教、哲学という問題がでてきたり、具体的にいえば菜根譚という様なものが登場してくる。

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