2016年10月5日水曜日

木村迪夫(農民詩人)      ・詩にこめた銃後の叫び声を聞け

木村迪夫(農民詩人)      ・詩にこめた銃後の叫び声を聞け
80歳 稲作やサクランボ栽培をしながら農民詩人として長い間詩を作り続けてきました。
作品は1000を越え、これまでに農民文学賞や現代詩人賞なども受賞しています。
作品の多くは戦争に反対する反戦がテーマです。
10歳の頃、太平洋戦争で父と叔父を亡くした木村さんは、残された家族の毎日の苦しみと悲しみに向き合いながら、詩を作ってきました。
終戦から70年が過ぎ、その苦しみや悲しみはどのようになったのか、作品を交えながら木村さんの戦後の思いを伺いました。

ずーっと戦争に固執してきました。
ふっと振り返ってみると、すでに80歳になっている自分に初めて気が付きました。
戦争は言葉で言えない様な負の財産を一杯残しました。
私はそれを蓄積しながら生きてきました、家族もそうでした。
親父が死んだという知らせを聞いて祖母も3日3晩泣き通しました。

「祖母の歌」
にほんのひのまる なだてあかい かえらぬ おらがむすこの ちであかい
ふたりのこどもをくににあげ のこりしかぞくはなきぐらし よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは さいのかわらでこいしつみ」
父は3度徴兵されて、最後に別れたのが9歳の時だった。
重機関銃の兵隊でした。
遺品の中から早稲田大学の講義録なども出てきたり、新古今和歌集、啄木の本がでてきたり、勉強したかったんだなあと思いました。
3回目の招集の時には非常に落胆していた。
令状がきてから3日後に行きました。
表情は悲しいのか、苦しいのか思いだせない。

「出征の日」
「わたしは知っている あめ色に光ったおこさまが 上になり下になり 濁った糸を一面になすり合っていた雨の日 冷たいおせぢ言葉をなげかけにやってくる村人達、 一人一人に祖母はしわだらけだらけの笑みをつくろい 母は暗いじめじめした庭すみに立ち、赤飯の煙にそっと泣いていたのを
わたしの幼い目は忘れない。  翌日真っ暗な巨体がゴトゴト近づきはじめると、バンザイという哀しみの合図をいっせいにたたきつけられ  父は静かに広場を離れてゆく。
ふるさとの乾いた土もゴロゴロした石ころも、コケの生えたかやぶき屋根も、みなうすっぺらな小旗の波にかくれてみえない。 バンザイという言葉をやめてください、日の丸の旗をふるうのをやめてください。
そしてもう一度わたしにふるさとのにおいをかがせてください。 なさけのしらない群衆をあとにゴトゴト 重苦しいひびきを残して去ってゆく。 その晩あかしの灯された たなの下でおこさまは濁った糸を吐きつくして死んでいった。」 (良く聞き取れない部分あり)

遺言状も書いてある。
誠実な一兵士であったと思う。
今度は生きて帰ってこられないのではないかと思ったようだ。
子供達一人ひとりに対しても書いている。
迪夫は百姓を継いでやるようにと、私に託したんだと思う。
しかし、本当は自由に暮らす様にとの思いが有ったと思う。(自分は自由には生きれなかったから)

詩を作る様になったのは二つ原因が有り
①祖母が女の歌を歌っていた。
戦争で犠牲になった苦しみ、悲しみを書きつづって死にたいものだと言っていた。
②百姓で何も思いを言わない、文章も書かない百姓には成りたくなかった。
何としても表現力を持つ百姓にならなければならないと思っていた。
本当は長いものを書きたかったが、時間が無いので紙と鉛筆を枕元に置いて、その日の一日を振り返りながら、一行二行書きながら寝て、それが結果として自由詩になった。

「百姓」
「お前は百姓だ 何も知らない百姓だ  何も見えない百姓だ それならお前と百姓は馬鹿という百姓に過ぎない  だからおれもやっぱり人間だったよ  しゃべればしゃべれる人間だったと判ったよ  見ようとさえすれば何でも見える人間だと判ったよ  なんでも知っていればしゃべることを知らなかったからだよ  だがこれからはなんでも知っている百姓、何でもしゃべれるれる百姓 何でも見える百姓に俺はなるよ」

自分自身の心のよりどころとして百姓としての出発の歌と思ったが、割り切れることはできなかった。
村の色々な厭な状況を見てきたので。

日本が負けたときには歓喜した、父親が帰ってくるのではと言う思いが有った。
21年5月に父親を知っている兵隊が帰ってきて、聞いたがうつむいて答えられなかった。
それで父が亡くなったことを悟って、号泣した。
泣きくれていたが、泣くのを止めて働かなければならないと言う強い意志が働いたと思う。
苦しい生活を10年ほど積み重ね、詩も書くようになる。
祖母が死んで、その後結婚して、楽観的な女性だったのでそれに救われました。
8月15日になると自分の部屋にこもって、ずーっと詩を書いたり、わざと部屋を暗くして一日を過ごしました。
戦争に対する怨念というものを蓄えておかないとならない、戦争を起こした国家権力に対する自分の抵抗です。

「建国記念日」 詩の朗読

父には今でも会いたい。

「まぎの村に帰ろう」 詩の朗読

反戦の詩を書いたことによって自分としての生き方、歩みをなるべくゆるぎないものにしようとして来たが、これから残された人生をもう一度自分を奮い立たせて、小さいながらも日常生活を確かなものに見つめながら足を一歩前進していきたい。
まだ生きられると自分に言い聞かせながら突き進んでいきたいと思います。
将来共に日本が平和であるような社会を持ってほしいと若い人に託したい、託していきたいと思っています。