内山春雄(野鳥彫刻家・木象嵌師) ・“タッチカービング”の世界
1950年岐阜市生まれ、日本の伝統工芸の一つ 木像嵌の仕事をされていた1970年代末にバードカービング 野鳥彫刻と言う工芸品に出会いました。
バードカービングはアメリカで鴨猟のおとりとして使うデコイから別れて生まれました。
木片を緻密に彫った鳥の彫刻に彩色し本物そっくりに仕上げる美術工芸品です。
内山さんはバードカービングに魅かれ腕を磨き、本場アメリカでの世界大会やコンテストで優勝をはじめ数々の上位入賞を果たしています。
そして日本の各地の博物館に作品を収めたり、鳥島やアメリカ、ミッドウエー等のアホウドリの保護、繁殖活動に協力したり、教育にバードカービングを生かした取り組みをされています。
今はタッチカービングに力を入れています。
目の不自由な方たちにバードカービングに指で触れてもらい鳥の姿形を知り鳥に関する知識を増やしてもらおうと言うものです。
アメリカに日本鳥類保護連盟が会議にでたが、会議場の隅に鳥の彫刻が並んでいた。
木を削って採色してあると言った。
日本鳥類保護連盟の人が愛鳥教育、学校教育に使えると思って写真を撮ってきた。
私のところに声がかかって彫ってほしいとの事だった。(36年前ぐらい)
今は5~6万人の愛好者がいると言う事です。
アメリカではクリスマスのプレゼントを自分で作ったデコイを相手にプレゼントすることは最高のもてなしです。
コンクールも沢山あり、売買の場でもある。
一体作るのに2~3ケ月掛かります。
バードカービング協会を立上げ、技術を広める、底辺を広める、作る人を育てる。
アメリカの技術に匹敵する様な人も20~30人出てきています。
子供時代、肋膜に結核菌が入って、医者もこの子は中学校まではいけませんといわれた。
小学校に通えるようになったのが5年生ぐらいで、体操などは付いていけなかった。
中学のころになると、どうやって生きるかを考えていました。
中学2~3年生のころに、だれもがやらないことをやれる様になれば生きていけるのではないかと思った。
父が木象嵌をやっていて、木造嵌師を選んだ。
父は木象嵌をやりたかったが、生活のために岐阜提灯などみんなで手分けをする仕事に切り替えたが、そのことに私は悔しさを感じた。
家の仕事を手伝いながら、木工のイロハを教えてもらいながら、夜間高校に通った。
その後特許事務所で図面を書く仕事を5年ぐらいやった。
23歳になる頃、木像嵌の夢が消えていくと思って、風呂場で頭の毛を全部剃ってしまって、無言の圧力をかけてみたら、母が父を説得して、父が習った富山に行かせてもらいました。
初代が中島杢堂と言う先生で(父が学ぶ)、私は息子の杢石先生に習いました。
見て習う、全てが見て覚える世界です。
富山には一年でしたが、楽堂という名前をもらいました。
小田原の木象嵌の店にいって自分で作った作品を持って行ったが、そこに居付いてしまった。
幻の象嵌という言葉が有ったが、自分で開発しようと持って、自分で編み出して箱根の象嵌師として認めてもらった最初の仕事でした。
30歳になって、浅草で工房を開いた。
物は作っても売ることを知らなくて、さばけなかった。
バードカービングを広げようと、日本木材開発に友達がいて、鳥を彫ってくれないかと言われた。
バードカービングを広げようとしたのが日本鳥類保護連盟で、山科鳥類研究所が有って、そこに鳥類保護連盟が間借りしていた。
30人ぐらいが座れるようなスペースが有って、そこで図面を描いたり鳥を彫ったりしました。
周りは全て鳥類の専門家だらけだった。(鳥類を勉強する最適な場所だと思った)
大学の講義をただで聞いている様な所だった。
ヤンバルクイナのことも毎日議論していた。
沖縄の高校の先生が死体を見つけて、自分ではく製にして、小さく曲げて送ってきた。
鳥の恰好をしていないので、生きている様なヤンバルクイナを復元できないかと相談された。
デッサンをして木を彫り始めるが、給料貰えず材料も自分で調達するしかなかった。
お風呂屋の叔母さんから家を解体した青森ヒバの木をもらう事が出来た。
報道関係が沖縄に行って、1カ月後に新聞で写真が発表されたが、自分で彫ったものが殆ど、瓜二つだった。
これは将来性が有ると周りから言われた。
鳥類保護連盟が学校教育を目標にしていたが、子供たちは笑顔ではなくて、原因を突き止めたかった。
刃物が子供達の手に合っていない、子供の力で出来る物ではない、という事だった。
子供用の刃物を200本用意して、どの学校にも貸し出したらスムーズにものができるようになった。
刃物の正しい持ち方、削り方、これを始めるきっかけになったのが中学生がバタフライナイフを使って先生を刺してしまったという事件が有り、ぷっつりとだえてしまったことが有った。
刃物の正しい持ち方、削り方をきちっと身につけてもらえれば怪我をしないし、若し自分で怪我をしてもどう辛い思いをするか、という事で授業をさせてもらった。
小学6年生は自分で作ったものは凄く4,5年生にみんな自慢する。
目の見えない人に彫ったものを触らせてあげると、スズメ、メジロとかを説明するが、目に見えない人は鳥の形がほとんど分かっていないことが初めて知ったんです。
一番触りにくいのが野鳥だと言うことが分かった。
工房に目の見えない人を招待して、話を聞きながら、どうすれば鳥の世界が貴方たちに伝わるかという事で、タッチーカービングで理解してもらう。
目が見えない人でも利用できる博物館ができないか、触れる博物館が可能か考えたが、特許も取りました。
ダーウインの進化論というのが博物館にないと言うことが分かった。
エクアドル政府が羽根一枚でも海外に出さない政策を取っているので、ダーウインの進化論を展示ができないので、それでは自分で彫ってしまえばいいと思いました。
剥製が無く、アメリカの博物館が内山のためにだけに貸しますということで15種類のはく製を送ってくれて、2年間かけて雄雌30体を作った。
盲学校で、くちばしの形でそれぞれの進化が有ったことが、理解してもらえた。
聴覚は凄くてパソコンのメールの音声を三倍速で彼等は聞く事が出来る。
母親は私のことをいびつなスイカだという、本来丸くてどこを切っても甘いのだが、いびつなスイカだが切ってみると委縮しているところとか種もないし、甘くもないが、甘いところもあるので甘いところを前面に出して生きるしかないんじゃない、こうして生まれた事はだれの責任でもないので、貴方はまるい部分、甘い部分を前面に出して、そこをより広くしてそこで生きるしかないんじゃないと、私のことを理解していてくれて、それが木象嵌でありバードカービングであり、盲学校にいくようになって、目が見えないがそれに見合う以上のものがちゃんとあることが理解できる。
私と同じ様な環境だと理解しているので、私の技術を役立てたいと思っています。