宮本 匠(兵庫県立大学講師) ・被災者がいきいきと暮らす「復興曲線」めざして
2004年10月に起きた新潟中越地震のフィールドワーク調査から復興曲線というユニークな手法を考案されます。
被災地の人々がどんな時に前進したと感じたかをグラフに書きだし自らを見つめると言う方法です。
宮本さんはそこに暮らす人たちが地域の持つ力を再発見することで町や集落のみずみずしい回復に繋げていくと言う内発的な、内側から力を発する復興を考え支援してきました。
宮本さんが学生時代からフィールドワークで通ってきたという場所、新潟県長岡市木沢地区で伺いました。
冬は雪が3mぐらい積もりますので、雪をおろさないと家がつぶれてしまいます。
地震で木沢地区は孤立してしまったが、自分達で道を復旧させたことで有名になった村で自分達で出来る事は自分達でやると言う逞しい精神が根付いている地域です。
住み慣れた土地でよく知っている仲間たちと一緒に再建すると言う、気持ちの面では大きかったと思います。
旧木沢小学校 地震の年の春に廃校になるが 2010年に宿泊施設としてリニューアルして、外から来る人が木沢の暮らしを楽しめる拠点になっています。
木沢は人が中心です。
農業が中心になっていて、自分でやれることは自分でやる、うまく自然と付き合いながら豊かに生活する自分達で作った文化があると思います。
米、野菜も美味しく、食べものが恵まれたところです。
地域の人が自分達で考えて、自分達の地域をどういう風によくして行くかという事を考えて活動に取り組むのが大事だと思っています。
外からの考えも大切です。(自分達がどんな宝を持っているかが、自分達では気付かない)
木沢は地震で水がでなくなって、区長の星野幸一さんの所に行って話したら、やりとりを通しながら、自分にできることは水を出すのも大事だが、木沢は凄いところだと言う事をやりとりをしながら教えてもらった。
宝を再発見して、どう行かせるか、おいしい食べもの、木沢の人柄を楽しんでもらうための拠点として、廃校になった小学校を宿泊施設として拠点にして、外からの人を受け入れる。
外の人たちと交流することによって元気になることに気付いた。
昭和59年生まれ、出身は東大阪市。
ラグビー、お笑い(友達との万歳)、読書(有名な作家を片っ端から読みました)、高校時代は小説家になりたかった。
大阪大学人間科学部に入る。
2004年 新潟中越地震が有り、友達がボランティアをやっていた。
声を掛けられて初めて新潟中越地震のボランティアを大学3年の5月に行った。
帰る日の夜に、神戸から派遣されてきた鈴木隆太さんに出会って、話を聞いてみると、村人と道を直していると言う事だった。
滞在を延ばして手助けすることになったが、自分が一番頼りにならないことが分かった。
周りのお年寄りの人達は凄いなあと思って、そこからのめり込みました。
災害ボランティアの研究をしている渥美公秀先生のゼミに入りました。
人とのやり取りをする手段として、木沢で畑を借りることにした。
地元の人はここは何にもないと言うが、兎に角話しを聞いた。
村人たちは段々何がある、という事に気づいて行った。
復興曲線、地域の雰囲気が良くなったら上、悪くなったら下。
人によってカスタマイズする。
縦軸は復興の指標。
インタビューをして、どういうきっかけで心の落ち着きを取り戻したり、きっかけを知ることができたら支援するのにいいのかなあと思いました。
神戸の場合、被災地を離れると自分が前向きになれたきっかけになったとか。(海外旅行に行ったときとか)
木沢の場合、人との交流が有るとあがる、目標は変動するので上がったり下がったりする。
人々が集まるきっかけを作ろうと、よそから絶えず人がやってくるようにしようとした。
色んなサークルや会が盛んになってきた。
2012年学位を取得、京都大学防災研究所の特別研究員になる。
東日本大震災の復興、これからが物凄く大切な時期だと思う。
外の人が賑やか過ぎるのかなあと見えるところが有って、地域の人が見えてこない。
生活再建が見えてくるときに、どういうものが自分達にとって豊だと思える生活なのかというところを見つめ直して行ったり、そのための活動が地域の人たちが主役になって進んでいくのではないかと思うのでこれからが大切だと思う。
2012年3月31日に南海トラフの新想定が出されて、却って地域の人たちがこんな大きな津波では自分達ではどうする事も出来ないと、諦めた方がいると言う話も聞いたが、どうしてその地域に住みついてきたのか、自分達の価値観をしっかり気付いたり見つめてゆく事が防災を積極的に進めるのにとても大事だと思います。
生きいきと生きている人ではないと災害に備えたいと思わない。(復興の話と同じだと思う)
天神囃子 おめでたい席で皆で歌うが、地震後初めてこの木沢で聞いて感動しました。