矢島純一(プロボウラー) ・70歳、シニア世界一
来年でプロ生活50年になる矢島さん、41回の優勝と公認パーフェクト28回を誇ります。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラ―として初めて優勝しました。
選手層が厚くパワーを持つアメリカの大会で優勝するのは大変難しいと言います。
ボウリングは1970年ごろから年齢や男女をとわず手軽であまり経験のない人でも出来るスポーツとして大変盛んでした。
矢島さんは1967年、昭和42年に日本プロボウリング協会設立と同時にプロ一期生として活躍しました。
矢島さんの安定した綺麗なフォームからのボールはとても破壊力が有ります。
当時と比べると競技人口は減りましたが、シニアの皆さんにはなじみやすいスポーツとしてまだまだ人気が有ります。
173cm、75kg 10年以上前に比べると今の方が体調がいいかもしれません。
トレーニングで84kgから75kgに落としていい状態です。
昭和42年に日本プロボウリング協会設立し、一期生が19名でした。(私は21歳でした)
一期生で現役は私一人です。
発足時から右手首の腱症炎を起こしていました。
発足記念大会に参加したくて、医者と相談して、当日注射を打って参加しました。
全く痛くなくて、予選6ゲーム、決勝で2ピン差で優勝しました。
その年の6月以降は投げられず、治療をしました。
その後よくなったり悪くなったり繰り返しをしました。(8カ月ぐらいボールを握れない時もありました)
綺麗なフォームは無駄な力が無い、ピークで力を入れる。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラーとして初めて優勝しました。
ラスベガスで行われ、参加資格は60歳以上で、127名参加しました。
70歳代の選手は10名ぐらいで後は殆ど60歳をちょっと超えたぐらいの人が多かったです。
2日間で16ゲームが予選、準決勝4ゲーム、20ゲームで上位5名が勝ちあがりする。
私は3位で通過、下からの人とやって勝って、2位の人とやって勝ちました。合計23ゲーム
アメリカは乾燥して居るので手首には良かったようです。
成田に着いた途端に汗が凄く出て体調が急に悪くなりました。
アメリカでは指が滑るのでその対策をしたのが良かったと思います。
中野ボウリング場で働いていて、普段は第二、四の金曜日スクールをやっていて、第二、第
四土曜日は26名でリーグ戦をやっています。
個人レッスンなどをやっています。
1970年代ボウリングが大盛況でした。
昭和44年に女子プロの一期生が誕生してその頃から爆発的に増えました。
昭和20年8月14日に新宿で生まれました。
物心ついたころの記憶ですが、10人ぐらい従業員がいた割烹屋をやっていたので食べ物に困ったという記憶はなかったです。
中学、高校ではバスケットをやっていました。
大学に行ってバスケットをやろうと思っていました。
ボウリングは高校1年生の時から始めました。
点数の付け方も判らなくて、計算してもらって、初めての時に186点出てしまいましたが、良い点数かどうかも判らなかった。
渋谷区に引っ越して父が酒屋をやって、大学に行かなくていいから後を継いでほしいと言われて、近くのボウリング場で練習をしたりしていた。
練習していたら、インストラクター(石川さん 後に一期生となる)が来て良い素質が有ると言われて、近々プロの協会ができるので、一緒にやらないかと誘われた。
父に説得してくれたが父親は駄目だと断っていたが、母が昔アメリカに行ったこともありボウリングをして投げたこともあると言う事で、1年間だけやってみてはという事で、翌年高校卒業後、或るボウリング場に就職しました。
インストラクター、プロを目指す人達が10人ぐらいでの合同練習が有り、入って10日目だったがパーフェクトを出してしまう。
日本でもなかなか出せない頃で、公認、非公認含めて7番目だった。
お金を出してゲームをしていたのが、お金をもらってやる様になり、下手なことはできないと1日40ゲームぐらいやっていました。
本当にプロとしてやっていけるのかなあとの不安はありました。
1972年、4000近くボウリング場が有った。(13~14万レーンぐらい)
朝5時には30人ぐらいいました。(その前に整備したり練習をしていた)
昨年は800強ぐらいになってしまいました。
本格的にトレーニングをしなければいけないと思ったのが15年前ぐらいからです。
食べること、トレーニング(筋肉を柔らかくするトレーニング)
バーベルを下げるときにも力を抜かない。(特殊な方法)
60歳から始めても筋力は付くが時間がかかる。(1~2年ではつかない)
出来る限り現役続行したい、そのためにはやるべきころはたくさんあるが。
50年間一つのことに集中して生きてこられたと言う事を思うと、ボウリングは自分の命だと思います。