河田弘登志(千島歯舞諸島居住者連盟 副理事長)・島が返るその日まで
82歳 かつて1万7000人あまりが暮らした北方領土は択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる日本固有の領土です。
河田さんは歯舞群島にある多楽島の出身で11歳まで島で暮らしました。
1945年9月4日ソ連軍が多楽島に上陸し、島の生活は一変します。
動揺が広がり夜にまぎれて島を船で脱出する島民が相次ぎました。
河田さんも学校に行くために、島を出ましたが、その後故郷を取り戻すため、返還運動に身を投じ、島民やその家族で作る千島歯舞諸島居住者連盟の副理事長として、後継者の育成にも力を入れてきました。
島を目の前に臨む根室に住み、近くて遠い故郷に何を思うのか、伺いました。
多楽島は一日で一周りぐらいの小さな島です。
仕事は漁業ですが、主に昆布漁で生活をしていました。
子供時代は、やす(もり)を作ってカレイなどの魚を突いたり、ざるに海老を掬ってくるとかしました。
大人の人達は、12月にコンブ漁が終わると、4つに別れた青年団が学校に舞台を作って、色々得意なことを競っていました。
多楽音頭は当時水産検査員をやっていた人が市を作って、曲は当時はやっていた瑞穂踊りに詩を付けて歌っていました。
四季の歌になっていて、多楽の自然を歌っています。
9月4日に、終戦になったので武器の返納式をやっていたが、情報が入り偵察にいったが、ソ連兵と出っ食わして、馬でソ連軍の隊長を日本軍がいる島の中心部に案内していった。
そのあと2人が新築して1週間位の私の家に来て、土足で上がってきた。(祖父、父親はいなかった)
銃で天井を突っついていた。(武器、日本兵、アメリカ兵が隠れていないか)
「トッキー」「トッキー」と言って仕草をして腕時計を欲しがっていた。
引き出しから光っているバリカンと剃刀を持って行って、そのあと「サッキー」「サッキー」と酒が無いかと言って、酒を見つけられてしまったが、持って行かれなかった。
隣近所でも同様だったとの事。
そのうちに家に来て、酒を飲むようになって、なかなか帰らないことがたびたびあった。
いか漁が終わって帰ってくると、焼玉エンジンで大きな音がするので、威嚇でソ連兵に撃たれた。
その頃から島を離れることが多くなって、学校も先生がいなくなって、ソ連兵の兵舎になった。
私の家の船は日本軍が残していった弾薬の海中投棄の為にソ連から強要されていた。
友達もいなくなって、NO.2で「アレキセイ」という兵隊がいたが、彼と遊んだりしたが、或るとき学校に行きたいと話したが、俺は11年学校にいったが、頭がキャべツになる(馬鹿になってしまう)といわれてしまったが、明るい時に船に乗って出ようとしたら、「アレキセイ」が机を担いで来て、これを持って行きなさいと言われた。
学校が終わったら戻ってきなさいともいわれた。
それからは、残った家族が2年後に強制送還されてくるまで音信不通だった。
何時帰っても住めるような思いでいて、一時避難的な気持ちだった。
子供心に何か帰る方法はないものかと考えた。
こちらでは、思う様に漁など出来る状況ではなかった。
返還運動のきっかけは、42年に青年会議所の人が中心になって、キャラバン隊を組織し署名運動をしたが、その頃は北方領土問題は知られていない時期だった。
組織を作ることにして、元島民の多楽の人に200通ぐらい案内をだしたが、さっぱり来なかった。
先ず私の血縁の人を対象に組織を立ち上げました。
我々の先代が血の滲むような苦労して、北方領土を開拓したが、理不尽な形で不法占領されてしまったことは、忍びがたいし、先祖に対しても申し訳ない。
もう亡くなった人も多いが、亡くなってからも島への想いは無くならないだろうと思います。
残された時間は少ない。
今交流を続けている人に対しては罪はないと思っているが、私達のことも理解してもらいたい。
ロシア島民も代替りしていて、ロシアの人も帰りたくても帰れない人もいるだろうと思います。
返還されたら、日本の法の下ですが、一緒に住みたいと思うのであれば、私は一緒に住んでもいいのではないかと思っています。
年が経過してゆくに従って、返還されないのではないかという人が多くなってゆくのではないかと思うが、反面、そういうことのない様に、日本の固有の領土なんだと言う事を勉強する機会を与えて、認識して貰わないといけないと思います。
絶えず期待するが、期待が大きいほど落胆も大きい。
返還が実現するまで返還の手を緩めない体制をしっかり見せていかないと、相手がいるので。
色んなところに色んな事を話す様にしていますが、百聞は一見に如かず、一回自分の目でもって見て頂きたい、若いうちに来て見てほしいと思います、そして知ってもらいたい。
戦争によってこういうことが起きたわけですから、地球上から戦争を無くしたい。