2016年9月19日月曜日

糸川昌成(東京都医学総合研究所) ・統合失調症の母からの贈り物

糸川昌成(東京都医学総合研究所、病院等連携研究センター長) ・統合失調症の母からの贈り物
分子生物学者で精神科医の糸川さんは統合失調症の新しい治療法となる薬を開発し、現在効果や安全性などをたしかめる治験を行っています。
統合失調症研究の第一人者と言われる糸川さん、糸川さんのお母さんも同じ病をかかえていました。

15~25歳の時に不調を発する人は大変多いが、今まで出来たことが段々できなくなって、現実の判断が上手くいかない。
自分に悪意を持って攻めたてているとか、根拠が妥当だと思えないことを信じる、妄想がでてくる、幻覚がでているなど、これまで出来たことができなくなってくるような行動上の変化に、そういったさまざまな現実とは折り合わない様な知覚が伴う様な一連のものを統合失調症と呼ぼうという事です。
原因について、単純なことでは説明できません。
代謝障害が統合失調症の2~3割あることを見つけて、代謝障害が有るときにビタミンが欠乏しやすくなることが分かっていて、ビタミンを補充しただけでは代謝障害は改善はしない。
代謝障害を改善できるようなビタミン類似物質が有って試験管内での実験では代謝障害をビタミン類似物質で分解する事は成功して、特許は得られていて臨床試験をしている最中です。
病院でも処方してもらえるまでには5~6年だと思います。

1989年に医師免許をもらいまいた。
祖母がリュウマチで寝たきりだった、祖父も父も銀行員だったので、文系の家だった。
医師が往診に来てくれて、祖母を診察している姿を見て、良いなあ、こういう仕事に就きたいなあと小学生のころから思っていました。
外科医を目指していて、母が統合失調症を発症したらしいが、5歳の時に祖母の所に育ててもらいに行って、母は病院で亡くなるまで数十年入院していた。
母のことを聞いたりするときに、祖母なども困った顔をするので、病気で亡くなったのか、離婚したものかと思ったが、戸籍謄本には亡くなってもいないし、離婚していないことも判った。
医学部の授業で統合失調症を知って吃驚して、30年前なので、統合失調症に対する予後は今よりかなり悪く悲観的な教え方をされたので、私も何れ母と同じ病気になってかなり悪い予後で社会復帰できないのではないかと不安を抱えました。
精神科医になろうと思いました。
若かったし、自分も発症するのではないかと思ったり、色々な思いも有り、母と会う勇気はありませんでした。
32歳の時に同級生の妻と結婚して、長男が生まれて、孫を見せたいと思ったが、迷っているうちに39歳の時に母が病院で亡くなり、遂に生きている間には会うことができませんでした。

亡くなって14年してから病院行ってカルテを見せてもらって、親戚の書いた母の外泊の記録用紙がでてきて、
昭和54年に親戚の家に泊まる前に旦那さんの家に入ったと書かれていた。
家では母のことを話題にすることはタブーだったが、成人して大分大人になってから叔母との間だけは母の事を聞かせてもらっていた。
一度だけお前のお母さんが会いに来たことが有ると言う事だった。
私がクラブ活動で疲れて寝ていた様で起こさずに母が寝顔だけ見て帰って行ったようでした。
49歳までは母のことは語れなかったが、漫画家中村ユキさんが「我が家の母は病気です」という本を書いていて、ユキさんの本を買って読んで、それから1年もしない頃、夏刈郁子さん(精神科医)が一緒に暮らしていたことによって色々苦労をされて、それを精神神経学雑誌(国内でも一番権威ある雑誌)にご自身の事を症例報告として書かれていて、それに私は衝撃を受けて、直ぐ手紙にを書きました。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/11/39.html (中村ユキさん)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/59.html (夏刈郁子さん) 参照下さい。

だれにも言えないでいて、「生きているうちに会えなかった後悔」と書いた長文の返事が来て、その中に生きているうちに会っても後悔をすることがあると書いてあって、ハッとしました。
それから1~2年して或る出版社の企画で夏刈先生、中村ユキさんと私と3人での座談会を企画していただいて、その5月2日の朝に、引き取って私を育ててくれた叔母(93歳)が亡くなった。

母をこの日に話すべきだと言う事で7時間3人で或るときは涙を流しながら、或いは笑いながらしゃべりっぱなしでした。
50歳ぐらいから母のことを話す様になって、今では研究室の若い人としゃべったり、普通に母のことを誰とでも話せるような状態になりました。
それまでには50年掛かりました。
それぞれの人にそれぞれの回復に仕方が有るので、比較する必要はないと思う。
私の場合は同じ境遇の方(中村ユキさん、夏刈郁子さん)との出会いが有って、今の様な、50歳までとは比べ物にならないぐらい、自由に考えたり取り組んだりするようになりました。
研究も母へのお詫びをしている様な感じが有り、精神科領域で未承認薬を用いた医師主導治験をするのが、私が日本で第一号だったんですが、睡眠時間は4時間ぐらいでボロボロになって研究していましたが、母に許しを乞う様なそういう研究生活でした。
楽しんだりくつろいだりすることにどうしても罪の様な意識を感じてしまっていましたが、母のことが自分の中で
決着してからは、普通に色々楽しんだりできるようになりました。

分子生物学でたんぱく質を研究しています。
30年近くたんぱく質を研究していると、たんぱく質の中で起きている化学反応、酵素反応が人間のすべてであると言う唯物論的な考え方に疑問を感じるようになります。
脳の中の化学物質が増えたり減ったりすることで、人の心は治ったり治らなかったりするように言われるが、僕自身そういう仮説のもとに研究してきたが、人が本当に回復するのは化学物質だけではない。
鬱病、統合失調症と言う病気の経験を本人がふに落ちる形で物語として描けた時に、初めて回復してゆきます。
鬱病になったのは上司のせいだとか、統合失調症になったのはここに入学したのが原因だとか、そういう直線で結べるような因と果の関係が分かるのがふに落ちる物語ではなくて、死の淵を見る様な病気を体験した人は前と後では、まるで別の人生になったかのように、新しい人生を歩み始めたんだと、理詰めではなくて、ふに落ちる形で、この病気はそういう事かと思える。

病気の前の状態に戻ろうと多くの人は考えるが、病気の為に元に戻れない、戻してほしいと言うのが理詰めの考え方です。
外科的治癒、胃がんで胃を取ってしまうとかは、がん細胞を取り除いても根治はするが前の状態とは違う。
精神科的な治癒、発症前とは違うところへ戻ってゆく。
池淵恵美子先生(精神科医)からの話、優秀な高校の先生が脳梗塞で半身が麻痺してしまう。
右手が麻痺して字が書けなくて、リハビリを進められても行く気がしなかった。
或る日、教え子が大勢で見舞いに来て、先生が戻ってくるのを待っていると言ったら、突然リハビリに通って左手で字を書くようになって教壇に戻っていった、という事です。
右手を元に直してくれというのが内科的治癒、手術する事に依って右手を回復してほしいというのが外科的治癒、左手で書けるように、これが精神科的治癒だと思っています。

私の場合はお二人に会ったことと、時間だ思います、機が熟した時期だったと思います。
急いではいけないし、無理をしてもいけない、機が熟した時に何かかちっと、うまくはまる様な形でふに落ちる。
亡くなって14年経って古いカルテを見せてもらって、統合失調症の中でも特殊な短期精神病性障害であった事が判りました。
母の症状の中に母にシャーマンとしての要素の様なものを感じることがとてもあって、自分の中にも受けるつがれている、ということが有ります。
勘の鋭さみたいなものは明らかに母から来ていて、自分の中には父に似た部分はいっぱい見つかるが父に似ていない部分の中に、母のカルテの外泊記録から親戚がわかって、生前の母のことを一杯教えてもらいましたが、お母さんにそっくりねと言われました。
母は勘の鋭さ、純粋さ、行動力が有りました。

全国に貴重な症状の人がいると、日本全国をどこまでも出かけて採血してあるいたりしたが、全国を回ってしまうとか、家中探しまわってしまう事などは、まさに母の性質が僕に受け継がれていて、決して厭なことではないです。
尊厳というたんぱく質はない、自尊心という化学反応はない。
尊厳は目の前の人にかけがえのない存在として丁寧に大切に遇した時に、遇された相手と遇した自分のと間に発生する共鳴現象のようものです。
母が亡くなって14年経って、母の親戚から母の若い時の写真を一杯もらってきて、妻や子供達に話したら、ずーっと50年自分の中にあった母の悲しみみたいなものがスーッと癒えてくるんです。
たまたま一枚の写真が僕の膝の上に落ちたが母がにこやかに笑っている写真で、母がようやく笑えた、母の尊厳が回復したと、心を込めて母を大切にするという話題で持ちきりだった時に、14年の時間を経て、母との間に共鳴現象が再現して母の尊厳が回復した。

尊厳、自尊心といったものは、薬だけでは何ともならない。
薬の開発はたくさんの人がやっているが、僕が結局一つの薬を作るのには30年掛かったが、今日から出来ることもある。
症状はよくなったり、悪くなったりする人がいるが、当事者も家族の方も悪い所に目が行きそうになる。
反省と後悔ぐらい脳に悪いことはない。
効いていた薬が効かなくなり、どんどん量が増えてくる。
いい時と悪い時があったらいい時に注目した方がいい。
殆どの病気には自然治癒の力が有ります。
具合のいい時に何かヒントが有ると思うので、それを探してみる、具合が良かった時を皆で話あうだけでもその行動自体が脳にいい。
脳にいいことを一杯すると効かなかった薬が効く様になって、たくさん飲まなくてもいい様になる。

母のタイプの精神疾患は再発しやすいが、今の私が治療するとしたら、父に貴方の奥さんは統合失調症の中では比較的予後のいい方で、短期間で元の状態に戻りますが再発はし易いですよと言って、再発したらいつでも入院させてあげます、といいます。
父は安心したと思います、父は早朝から深夜まで働き、土日も働いていましたから。
父は反省、後悔をしたりしたと思います、むしろいい時にしていたことを皆で話し合いましょうと言います。
脳にいいことを見分ける方法は、何かをする前と後を比べて、する前よりも後の方が気持ち良ければ脳にいいだろうと言っています。
母の症状に父の背広を鋏で切ってしまうとか、父が会社に行こうとすると、父の傘が大きいく危険だからといって、母の赤い傘を持ってゆくようにいった、ということが有ったようです。
産後の不安定な時期に、父がほとんどいなくて、異常行動ではないと言う事が言えるのではないかもしれない。
母の子として生まれた意味がちゃんとあって、母の病気を研究して、母の病気を治せるような薬をつくっている、僕がこの世の中に生まれてきた意味がちゃんとあったし、その意味ある僕を生んでくれた母は凄く尊厳ある存在として、僕のなかにふにおちたわけです。
治療薬を開発するテーマに取り組んでいる、これがちょうどふに落ちる物語となったのが50歳で中村ユキさん、夏刈郁子さんとの出会いであり、母の親戚との出会いでした。