2016年9月30日金曜日

髙瀨聖子(国連平和の鐘を守る会) ・世界に響け、平和の音

髙瀨聖子(国連平和の鐘を守る会 代表)・世界に響け、平和の音
ニューヨークの国連本部には日本のお寺にある様な平和を祈る鐘が有ります。
この鐘は今から62年前、昭和29年に一人の日本人が私財をなげうって国連に寄贈しました。
愛媛県宇和島市出身の、中川千代治さんです。
この鐘に込められた思いを伝えようと、中川さんの娘の高瀬聖子さんが世界を回り始めています。
高瀬さんは鐘の周知や保全など目指す団体、国連平和の鐘を守る会を作り、東南アジアのミャンマーを手始めに自分自身も世界に鐘を贈ろうと活動しています。
鐘を通した平和の願いはどのようなものなのか、それが今の世の中にどの様に必要とされるのか、伺いました。

1954年、父、中川千代治さんが戦後間もなく平和を願って国連に寄贈させていただいたものです。
毎年、国際平和デーに事務総長によって突かれています。
日本国連協会という民間の外郭団体が有って、宇和島に国連協会の支部ができて、支部長になって、国連総会の場で、昭和26年にパリで有るんですが、平和を祈る人達から集めたコインを溶かした鐘を、日本人が平和を望む国民であることの証として国連に置かしてほしいという事でした。
費用は自分で工面しました。
二度と戦争はあってはいけないと、それをみんなに訴えたいと言う一心だったと思います。
戦争に参加したことの後悔が原動力にあったと思います。
父は日中戦争に参加して、小さな部隊を持っていましたが、3つの約束をさせて、①村人たちを殺してはいけない。②物を取ってはいけない。③女を犯してはいけない。 約束をさせて実際にそういうことをやったんですね。
敵味方であっても心の交流が持てた。

その2年後に太平洋戦争で、ビルマに行きました。
大変な激戦で、人々のうめきを聞いてなんで自分がこれに参加しただろうと、凄く苦しかったと思います。
足を撃たれて倒れるが、仲間が死んで自分が生き残ることがどんなに苦しかったことか、どんなに地獄だったか、私達は想像ができない、想像を絶することだと思います。
戦争の悲惨さを伝えなければいけないと、言う使命を感じて帰ってみたら、菩提寺の鐘が武器になっていたと言う事を知って、これはいけないと思って、世界から汗の沁み込んだコインをもらって、溶かし込んで思いを融合させたかった。
自分の軍刀、砲弾などもいれました、戦わないぞという思いを込めてでした。
国連に鐘を送った後、世界各国に鐘を送る活動を始めた。
亡くなるまで22年間、141カ国の大使館に行って自分が持って行って平和を訴えて、大、中、小288個の鐘を送り続けている。
ラオスの国立博物館にも宝物のようにしてありました。

「世界絶対平和 万歳」と鐘に刻まれています、万歳は永遠にという思いです。
昭和36年、キューバ危機が有りましたが、父は平和の鐘を突きました。
国連に贈ったものと同じレプリカを二つ作って、アメリカとソ連の大使館に持って行って元首に渡してほしいと平和の為に努力してほしいと手紙を添えて、送りましたが、ケネディーさん、フルシチョフさんから返事を頂いています。
平和の鐘がどういう意味を持っているかということを伝えていかなければいけない、それが無かったらただのものでしかない。
そこから私の活動が始まりました。
2年前から(66歳)から鐘の周知や保全など目指す団体、国連平和の鐘を守る会を作りました。
残っている書き物などを読んでみると、ここまで一途な思いなのかと感じて、父の思いは全部は伝えられないがせめて自分の思いを伝えようと思いました。
活動をする中で、素晴らしい人たちと巡り合ってきました。

人は忘れてゆく、消えてゆくが、自分が知った以上はそれをやらなければいけないと思っています。
若い世代に知ってもらいたいと思って、先ずは宇和島の学校に行って話をしまして、その後、今年ニューヨークの日本人学校(国連の近くの学校)で話をしました。
鐘を突くところには、月と日と周りが月桂樹で囲まれていて、月桂樹は平和をあらわし、日は男性、月は女性、男女の愛、家庭の愛、夫婦親子の愛、これが平和の基なんだと父は訴えたかったので、そのことも話しました。
相手を思いやる、認める、そういう輪を広めてゆく事の父の思いを、出していけるのかなというのが自分の思いです。

若いころ、戦争で、ベトナムで苦しんでいる人がいると言う様なことは、よその国のことの様な感覚でした。
当時、父がそういう事(鐘の運動)をしているとは思わなかったが、やっと判ってきました。
情けない話ですが、判ったのが2年8カ月前でした。
鐘を贈る活動をはじめましたが、先ずはミャンマーに贈りたい。
ミャンマーで父が使命を与えられたこと、鐘の原点はミャンマーにあると思っています。
頑張って、理想国家作りをしてほしいという思いです。
軍部と政権側に贈ろうと思ったが、もう一つ欲しいと言われて、ミャンマーは多くの少数民族がいて、無視することができないので、という事で3つの鐘にしました。(コインは60ケ国位から集まってます)
鐘は9月にはでき、今年度中には大丈夫だろうと思っています。
父が戦後やった様に人づてに話しをしながら、純粋に加わってくれる人達でやるからこそエネルギーがでると思っている。
もっと鐘をついてもらえれば、あれはなんだろうと耳を傾けてくれて、世界を平和にするんだと言う思いが有ることに理解してもらえるが、置きものとしてあるのでは、ただの置きものになってしまう。
残すと言うことは、後の人が残してゆく事で、バックも何にもない一人の男性が世界に向かって訴えていったということは、みんなやれるよ、という応援でもあると思うので、そういうことは伝えなければいけないことだと思います。