與古田光順(元基地通訳) ・沖縄とアメリカの“かけ橋”に
71年前、烈しい地上戦が繰り広げられた沖縄、與古田さん82歳も沖縄戦で 4人の兄弟を奪われました。
戦後は敵国であったアメリカ軍の基地や普天間基地の有る宜野湾市で通訳を務めました。
與古田さんに沖縄とアメリカのかけ橋になろと葛藤し続けた人生について伺います。
以前のように機会は少なくなりますが、自然に英語がでてきます。
通訳をして双方の考えを理解させる、その使命が有っておのずから自分自身は米国と琉球のかけ橋なんだなということは意識するものでした。
日本で一番基地の集まっている沖縄で基地を直ぐ撤去することは不可能だけれども、かけ橋となる人が増えて双方から真剣に誠実な協議をすれば解決できない問題はないと思います。
1944年10月10日、当時10歳だったが、アメリカ軍の空襲に遭う。
1400人以上の死傷者が出る、十十空襲。
夜が明けきらないうちに、大砲の音が聞こえて目を覚ます。
那覇市は灰燼に帰してしまった。
家族と墓(墓の中に空間が有る)の方に逃げ込んだ。
ちょっとゆとりあると12~13名入れる所に3倍ぐらい入り込んでひしめき合っていました。
朝7時過ぎから夜の9時ぐらいまで居ました。
窒息して今にも死ぬんじゃないかと思う様な時間が長く感じられました。
那覇から北へ徒歩で14時間かかって逃げてゆきました。
祖母の生家に辿りついて、やはり墓の中で暮らしました。
大小便に苦労して、外に出たら敵機に見つかって全員やられるという事で我慢して針で突き刺されるような痛みを覚えました。
アメリカが上陸して攻めて攻めて、南部の方に追いやられて、爆撃にやられて兄弟が亡くなりました。
母に聞いたが顔面蒼白で物が言えない様な、鬱病みたいになって、聞かないでいようと思いました。
6月23日には沖縄線が終わる。
兄弟も亡くして戦争の悲惨さは身に沁みている。
20代で通訳を務め始める。
叔父、叔母がハワイに長いこと住んで、タクシードライバー、メイドして、英語社会で鍛えられて沖縄に帰ってきて、米軍基地で通訳をしました。
傍で聞いていて羨ましくて、英語をしゃべりたいと思いました。
叔父、叔母から英語を勉強しました。
単語カードを作って、単語力が身についてヒアリングも身について、会話力も身についてきました。
通訳の仕事をするようになりました。
26歳でアメリカ軍普天間基地の司令官付きの通訳となる。
司令官と市長との間にかわされる公文書の翻訳、電話連絡等の翻訳、職員又は市長に伝えると言う事が主な仕事でした。
兄弟たちを失った事は悲しいし、悔しいが、2度とああいう痛ましい戦争が起こらないためにも、通訳という仕事を忠実にやってゆく以外にはないと思いました。
当時アメリカ軍は余り良くは見られていませんでした。
基地が有る故に色んな事故、事件が起こっていました。
お互いが理解してゆくためには懸け橋となる通訳が必要だと思いました。
憲兵隊の通訳もする。
基地でメイドで働いていた人妻の女性が後ろから抱きつかれたりして、イエスと言わないとパスを奪うと言われると言う事だった。
女性の事を司令官に報告して、軍曹を連れてくるように指示して、取り上げたパスをここに反しなさいと言って、今日限り貴方のメイドではないと言って、今後悪いことをしたら軍法会議に掛けますと言って、それは解決しました。
司令官が言ういい人という所に、新しい職場を紹介してもらった。
泣き寝入りをしている人が多いことが判った。
憲兵隊の通訳は2年で辞める。
銃剣を敵に使うべき物を、ベトナム戦争で罪もない妊婦女性を刺殺して、それを喜んで毎日写真を撮って持ってくる。
当時軍人にはそういう人が多かった。
8つか9つになる少女が真っ裸にされて、裸のまま歩いている写真を持っていて、それらを見せられて厭になって辞めた。
自分の妹たちがどういう殺され方をしたのか、ということが写真と重なるわけです。
通訳を辞めて本土に渡り、アルバイトをしながら、生活しました。
通訳時代に結婚して子供もいましたが、本土に渡って連絡も取らなかった。
行くときはそれほど悪い症状ではなかったが、早く沖縄に帰りたいと思ったが、鬱になるとまともな仕事につけなくて、プライド(通訳)もあってやけ酒を飲んだりした。
そのうち元気になってきて、沖縄に戻ろうと思った。
53歳で普天間基地の有る宜野湾市の基地対策室渉外官になる。
普天間基地の指令官と宜野湾市長の間にかわされる公文書の翻訳、基地への許可証の英文和文の作成、市民からの苦情の対応(主に騒音など)などをやりました。
人命救助、アメリカ軍の海兵隊委員が、雨が降っている中、ビールを飲みながらふざけて水に落ちて、激流に流されて、捜索するが2人が発見、1人は行方不明、人命救助の要請がある。
職員を集めてグループを作って協力しようとアメリカ軍と合流し、捜索する事になる。
それをやってよかったと思う。
普天間第二小学校に新しい校舎を建てるためには、敷地が足りなかったが許可が下り、天にも昇る気持だった。
誠実な協議、これが大事です。
問題が起きることは難しい事ではあるが、このまま放置するわけにはいかない。
だからこそ双方のかけ橋が出現することを祈らざるを得ない。
放送が全国に流れて少しでもいいから戦後の沖縄の事を理解してくれれば本当に嬉しいです。
あんなに愛した兄弟たちを奪った戦争を直ぐには許せないが、戦争を二度と沖縄に起こしたくないから、こうして英語を使う人間として、沖縄で戦争をさせないぞ、という強い気持ちが支えになって通訳をしている。