2016年9月21日水曜日

なかにし 礼(作家・作詩家)   ・この歌をあなたに

なかにし 礼(作家・作詩家)   ・この歌をあなたに
天使の誘惑、今日でお別れ、北酒場・・・などたくさんのヒット曲を持つ作詞家で、平成に入ってからは軸足を執筆活動に移し、「兄弟」を始め、直木賞を受賞した「長崎ぶらぶら節」など多数の著作を発表しています。
そのなかにしさんに癌が発見されたのが平成24年3月、手術に耐える体力が無いからと、必死で調べた治療法、陽子線治療が功を奏して健康を回復されました。
しかし昨年には癌が再発して、一時は覚悟もしたと聞きましたが、見事病気を乗り越えて復活、そのなかにしさんが病気を乗り越えた後作ったのが、ラジオ深夜便の歌、「歌百花繚乱あっぱれジパング」です。
この歌にどんな思いを込めて何を発信したかったのでしょうか、伺いました。

去年の9月13日に退院、それからほぼ1年になります。
常に早期発見で対処できるようにしています。
「歌百花繚乱あっぱれジパング」 僕の病気とは直接関係ないが、日本が内向きになってきて、外に向かって持ってほしいと思って、様々な人種、様々な民族がそれぞれ、百花繚乱咲いているのが地球であると言う事を判った上で、日本という国は美しいとか、故郷は美しいと言うのは一向に構わないが、その気持ちが排他的になったり、愛国心が強すぎたりして愛国主義になったりしないでほしいなと、そういう思いを込めて書きました。
心、精神、魂と言ってもいいが肉体と違う大事なものが有り、そっちを忘れるとただの病人になってしまう。
精神を生かす努力をする事によって、きっと肉体も元気づくのではないかと思っている。
肉体だけでは復活できない。
あえて精神活動を活発化することをやっていました。
病院に居ながら小説をずーっと書いていましたし、来月出ます。
「夜の歌」というタイトル、僕自身はいったい何者なのか、いったい何が僕に歌を書かせ、小説を書かせたのかという、そういうことを探り続けている、1000枚以上になりました。

僕の一番凄い経験は戦争体験、死なずに帰ってきた戦争体験はこれ以上濃厚な体験は無かった。
幼年期から少年期に体験したので僕の人生を作り上げているのが戦争体験です。
戦争体験をもっと自分の身近に引き寄せて、歌を書く様にし始めてから僕らしい匂い、個性を持ち始めてきたのではないかと思う。
シャンソンで1000曲、歌謡曲で3000曲なんです。
オペラ、舞台もやり、小説も書いていると言う事で、仕事の量も多かった。
一時トップ100のうち28曲が僕の作品でした。
昭和48年は「今日でお別れ」・・・
自分は本来ナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、若いころからモットーとしていた。
裏返すと、硬派 。
ナンパ、直線的でないということ、角ばっていない、常に曲線である。
異端、ある主義のど真ん中に居ないと言う事、常に異端ということはそれは常に自由という事。
愛国心はいいが、愛国主義となると排他的になる。
・・・主義ということは一生使いたくない。

言葉は大事だと思っている。
どうやって自分を見失わずにいるか、物を書くと言うことはそういう事を日夜自分に問いかけてそれに答えながら、物を書くので非常に精神衛生上いいんです。
物を書くのは苦しいですが。
それは戦争体験から始まっていると思います。
自分の身は自分で考えて、流されずに自分自身で行動すると言う事をその頃から学んだと思います。
戦争を経験したことによって生きることは素晴らしいと思ったが、どう生きるかがあるわけです。
自分の場合はナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、言う事です。
どこにも属さない、だれにともつるまない。
しかし、微妙な違いを大事にしないといけない違いを認め合う。

歌を書きはじめたのが昭和41年、第一曲目「涙と雨に濡れて」だが、なんて下手なんだろうと思いました。(それまでは1000曲のシャンソンを訳詩をやっている)
当時25歳で大した恋愛をしたわけではなく、そうすると何にも言葉がでてこない。
そこで思いついたのが戦争体験で、その感情を恋愛、人間生活、人間環境の中に置きかえて行ったら、人生体験としてもっと別な表現ができるのではないかと思った。
戦争体験と向き合いながら、歌謡曲という作業をし始めて、歌謡曲が書けるようになった。
「恋のハレルヤ」は第二作目だが、なんであんなにうまくなったのか、戦争体験を前面に持ってきた。
逃げ惑って大変だったけど、たった一つ素晴らしいことが有った、引き上げが決まって、ふっと見た光景が真っ青な海、空も真っ青、ぽつんと見える帰れる船、この瞬間は、故郷に帰ることを思ったユダヤ人、紀元前586年のバビロンの捕囚の解放の時の喜びに近いものを、僕は味わったんだなと思ったわけです、つまり晴れるや、だから「恋のハレルヤ」になったんです。
「愛されたくて愛したんじゃない、燃える思いを貴方にぶつけただけなの、貴方の名前を呼ぶの」、これは愛国心です。
ハレルヤは喜びを表現するのにぴったりだった、「貴方」は日本です。

戦争で日本が負けて、満州国に住んでいる居留民は日本国に捨てられるが、周りは中国人だらけで生きてはいけない。
非難民収容所で1日2食を食べて生きている、じゃあそれを恋に変えてみようじゃないかとなると、人間がメインになるわけです。
今だから言えるが、ヒットした時にそういう事を言ったったら厭な作詞家だなと思われる。
「人形の家」はなんであんなに重い恋の歌なのかと言われたが、僕としては極めて自然だった。
大失恋をしたんです、国に大失恋したんです。
「時には娼婦の様に」
大正リベラリズム、はやったのはワルツ、抒情歌が一番出来た時代。
ワルツは1917年にロシア革命が起きたが、自由、平等、友愛、のフランス革命から続いている、革命思想の或る流れが日本にも伝わってきて、左翼も誕生して色んなことが始まるが、日本の左翼が一番元気だったころで、ワルツがはやって、昭和になって、不穏な空気になって、軍歌、マーチ
がはやって、昭和になって古賀政男「影を慕いて」ワルツです。
大正時代に生きた古賀が昭和になって泣きながら失恋の歌を書いたが、それ以後は軍歌。

歌は自然に規制する。
人間の本性、歌って見せるべき時もそろそろ来ているのではないかと思って、「時には娼婦の様に」を作ったんです。
歌は限りなく進化しているわけですが、復古調で後退するということは僕としては望ましくなかった。
だから「時には娼婦の様に」を書いたが、一部NHKとかが放送禁止になった。
歌は規制したからと言ってそれで終わるものではないと言う事で、あれはやってよかったと思います、代表作の一つだと思っています。
昭和という時代に対する恋歌であり、恨みの歌であり、昭和という時代によって僕は育てられたので感謝の思いも込めている。
昭和が終わった瞬間に、歌を書く相手を失ってしまった。
平成1年に「風の盆恋歌」を書いて、作詞家休養宣言をしました。

喜怒哀楽、色々味わいました。
これからは小説を書く事だと思いましたが、作詩とは全く違う。(マラソンと短距離の第一走者)
脳の改造に7~8年掛かりました。(猛烈に名作の小説を読んで色々勉強する)
自分のことを書きたかった、自分とは何なのかを、知ることしかない。
始めて書いたのは「兄弟」
「歌百花繚乱あっぱれジパング」は僕の日本の国、日本人にたいする10年に一度の愛情表現。
「祭り」は1984年  2008年には「三拍子の魔力」
人生讃歌の歌です。
本当に日本て、いい国だねと、日本が愛されてゆくためには、世界の中に在って日本はこんな精神の国だと言う事をもっと発信すべきだと思って、だからこの歌(「歌百花繚乱あっぱれジパング」)を書いているんです。
「魚は水に飽きない」(賢者の石の小説の中の言葉)  僕らは「書く事に飽きない」