2016年9月20日火曜日

古木謙三(旅行会社社長)    ・旅は人生の財産

古木謙三(旅行会社社長)    ・旅は人生の財産
昭和22年生まれ、大学卒業後、兄が立ち上げた若者向けのチャーター便のヨーロッパツアーを手伝い世界中を回りました。
その間ハイジャック事件に遭遇するなど様々な危機も体験します。
人が旅に求めるのは何かを追及し続けて50年、「旅は人生の財産」をモットーに、社会の変化や高齢化時代に合わせたきめの細かい、夢の旅の実現に取り組んでいます。

高校まで鹿児島で育ち、大学が東京で、一旦戻って家業を手伝い、27歳になった時に、東京に出てきました。
8人兄弟で(男4人)父は明治生まれで厳しかったです。
父はユースホステルを自分で家を提供して始めました。
小学校5~6年頃、ユースホステル協会が日本に入ってきて、若者が旅行する宿が無いと駄目という事で、鹿児島で父に県のユースホステルの会長になってくれないかとの話が有った。
家が広かったので、家を解放して、若者に提供することになった。
戦後間もないころ父に汽車に乗せられてこの線路は東京までずーっと続いているんだと言われて行って見たいと思いました。
父はヨーロッパに行ったりして色々話をしてくれました。(放浪癖が有りました)
兄もアルバイトをしながら旅に出かけたりしていました。(兄弟皆旅行が好きでした)
私も大学4年の時にマレー半島を縦断して東南アジアを廻ったりしました。
持っている家財道具を全部売って、卒業までの4カ月はふとんもなくて苦労しました。

中学の頃、鹿児島から桜島まで泳ぐごとは戦前はやっていたようですが、父から言われて泳いだりしました。
高校は柔道部に入りました。
私が勉強していると、父から勉強ばっかりするなと言われたりしました。
小学校の時は、繁華街に4階建てのビルを父が持っていて、1階が衣料品、2階がレストアン、3階が事務所、4階が倉庫になっていました。
私が小学校の2年の頃ですが、正月から店を開けておく。(神社が近くにある)
皆さん神社の初もうでに行くが、店の前に大きなかごをだして、私ら兄弟がスカーフとかを売ることをやらされた。
中学のころはレストランで正月三が日は厨房で皿洗いなどやらされました。
中学の終り頃は週に1~2回、ビルのトイレ掃除をやらされ、高校の時にはビルの宿直を週に一回やらされました。
一番多い時は従業員が100人ぐらいいましたが、4階が倉庫ですが、そこで荒縄で荷物を包みますが、夏休みは手伝わされました。

春休み、夏休み、冬休みは忙しかった。
ユースホステルの自宅にはピーク時には100人ぐらい泊りました。
その間食事、布団の用意を手伝わされる。
その間に、応接間に学生を集めて姉たちが1時間ぐらいミーティングをやったりします。
消灯が10時~10時30分ぐらいでそのあとに、食事をするわけです。
朝は7時から食事なので味噌汁を注いだりして、時間になったら大慌てで学校に駆けてゆくので、勉強する間は無かったです。
でも難しい中高一貫校に受かりました。(兄たちも同様でした)
中学2年の終りに、その高校の受験が難しいが受けなくては高校に行けなくてそれを受けて、通らなかったら落第か退学で、私は退学して普通の中学に行って、公立の高校に3年間行きました。
上の兄も留年でした。

父は学園のPTAの会長をやっていました。
3月に総会が有り全国から父兄が集まり、父が会長で舞台に上がって挨拶するときに、母から聞いた話ですが、机をドーンと叩いて「この学校はけしからん」と怒鳴ったそうです。
校長などは真っ青になったそうです。
「PTAの会長は地元のボスがやります、私はこの街のボス的存在、息子の一人は退学、一人は留年」、と言ったらみんながびっくりするが、父はなかな役者で、一瞬間をおいて、優しい声で、「皆さんこんなフェアーな学園に御子息を入れて幸せだと思えませんか」、と言ったら大拍手。
「この学校は校舎、教材などにお金が足りません、今拍手した方去年の倍以上寄付して下さい、ただし母子家庭は結構です。」
という事で一夜にして私が退学したことが、全校に広がった。
父が「よかってね、これで同級生が倍になるよ」と言ったが、意味が判らなかったが、後から考えると、確かに今でも両方の学友と付き合っています。

自宅だけでは足りなくなって、霧島国立公園に父が何千坪か土地を買って、200人収容のユースホステルをつくって、私達はもっと忙しくなりました。
一番上の兄は大学卒業後、父の家業を手伝っていたが、昭和39年から海外に自由に行けるようになって、ヨーロッパに行ってくるように父から言われて、ヨーロッパに1か月間行きました。
ヨーロッパ文化勉強会を始めて、昭和41年皆でヨーロッパに行こうと言う事で、オランダ航空をチャーターして、羽田から一カ月旅行を出発した。
一機チャーター (137名乗客) 500~600万円(現在の7000~8000万円)
いざとなればあのビルを売ればいいんだと父が言ってくれて、実現した。
その後正式な旅行会社になりました。
私は小学校の先生になりたかった。
大学4年の12月、教職を取っていたのか聞かれたが取っていなくて、父から言われて帰ってきてユースホステルの仕事をするようになりました。
父は語学が堪能だったので、ヨーロッパの旅行者を結構泊めたりしていました。
父からは国際性、礼儀、体を鍛えることなどを教えられました。

1973年ヨーロッパを旅行していて、大きな3つの事件に遭遇した。
①第一次オイルショック  オランダでは日曜日は車は一切走ってはいけない。
②ギリシャでの軍事クーデター(一切外出禁止) 
何とか旅行会社から空港までの許可証をもらって空港にいった。
オランダ航空だけ日本に帰る便が着陸すると言うんで、滑走路を走って23名乗り込むとができた。
最初の寄港地がベイルートで、ベイルートを離陸したらハイジャック遭い、手榴弾と銃を持っており、映画を見ている様な感じだった。
バクダッド、リビアのトリポリなどを回って、最後マルタ島で釈放された。
(放送前にニュースが長く中途で録音終了)