渡辺喜久代 ・戦地へ宛てた115通の“恋文”
去年戦地で生きる支えとなった「115通の恋文」という本が出版されました。
福井県出身の軍人山田藤栄さんに故郷に居る妻しづゑさんが書いた物です。
手紙の中には愛しい私の貴方へ、出来ることなら今すぐ飛んで行って、私の気持ち、心をお知らせするものを、ひとときも忘れることはありませんなどと、離れて暮らす妻の寂しさや夫への恋しい思いがつづられています。
山田藤栄さんは戦地で肌身離さず手紙を持ち続け、戦後1年間の抑留生活を経て、手紙とともに帰国しました。
夫の藤栄さんは平成9年に90歳で、妻のしづゑさんは平成11年に86歳で亡くなっていますが、二人でかわされた恋文は長女の渡辺喜久代さんが受け継いでいます。
115通が紐で結われていて、表紙には「故郷の思い出」と書かれている。
良くこれだけのものが残っていて読めますし、母の字が自分に対して語りかけて来ているような感覚で読ましてもらっています。
母が毎日父のことを案じながら、会話をしていた様に感じます。
当時新婚で、身ごもったことが判って、夫は戦地に出かけ、しづゑさんは福井県で過ごす。
ひたすら恋しい、子供が身ごもった時は色々かわいがってもらった甘い生活の記憶しかなく、こういう事を文章にしていいのかなという言葉も文章に出てくる。
つのる思いが凄かったと思う、だからだれが読んでも心に響いて来るんでしょうかね。
「おなつかしい私の大好きなお父様、重ね重ねお手紙どんなにうれしかったでしょう。
そのあとはますますお元気で御精勤あそばされる由、しづゑ始め母や弟も大変喜んでいます。
遠く離れていては思うばかりでいた仕方ありませんが、お父様がお帰りになる頃は子供と二人して元気いっぱいでびっくりされる様お待ちしています。
それまでお金をためて、ドライブなんて随分と素晴らしいのね。
待っているは二人ではなく3人よ、そのときはいいお髭のお父様で、私は落ちついたいいお母さんになり済ましてゆくのよ。
なんだか嬉しい、これからはうんと節約していきますわ。
それとね、お父様も夢を見ているのね、二人が同じことを書いておりますわ、きっとお父様が先に私に会って、私が又お父様に会っているのね。
本当に夜が楽しいです、ああいくら書いてもきりが有りません、忘れられぬ夫さまへ、一人ぼっちのしづゑより。」
普段は寡黙で針仕事をする姿を見ると、こんな若い時が有ったんだと思うと、凄いなと、烈しいものを持っていたんだと思います。
今考えると、明日もしかして戦死してしまったらどうしようという不安と、お腹の中の子供のことを思うと、毎日毎日考えていたと思う。
父にとってはそばにいてくれる唯一の母だったんですね。
フィリピンのミンダナオ島にいって、食糧の供給が断たれて飢えに苦しんだ。
父が指揮した山田部隊、1000人を越える部隊でしたが、9割、殆どの人が餓死だった。
農家出身だったので、畑を借りて飢えをしのいだようです。
夫への想い、子供を身ごもって待っている気持、同じ手紙なんだけれども、何度読み返しても父としては新鮮な思いで読み返していたと思います。
じゃあなかったらとっくに自決していたと思います。
心を支えたものは、家族が有ったからでしょうね、母が手紙を送り続けていて、綴ってきたものの足跡みたいなもの、本音、心の奥底の叫びみたいなもの、父に元気で帰って来てもらいたい、3人で暮らしたいという願望が父に伝わっているので、どうしても生きて帰りたいと思った、と思う。
抑留生活にも耐えてきたのは、どこかの隅に母の声があったと思います。
父は見るからに目がくぼんでいてげそっと痩せていて、骸骨の様な感じでした。
手を繋いだら、手はぼそぼそでした。
リュックサックの中を開けたら、紙の袋に干しブドウと手紙が入っていた。(8歳の時)
父は過酷な戦地の出来事は話せなかったと思います。
父は剣道をやっていたが竹刀を持っていると、人をあやめた感覚が戻ってきてしまったので、もう竹刀を持つ事は止めたと言って、その後は持ちませんでした。
戦争、人をあやめる、それほどむごいものはないと思います。
今の若い人に戦争は大変だと言っても、細かいところ、些細なことなんだけれども、それが些細なことではなくて、凄く重要なことだと思っています。
体験した人はもっと心の痛手になってずーっと持ち続けて死んでいったと思います。
フィリピンの慰霊の旅に父は出掛ける。
厚生省はもう終わったと言ったが、自費で出かけて行って、遺骨収集をして、御経をあげながら燃やして箱に入れて持って帰ることを何年もやりました。
父が、現地の人が喜ぶと言う事で、現地の人に衣類などを持って行った記憶が有ります。
慰霊碑も献金を募って建てました。
父は晩年認知症になり近所を徘徊したりしました。
神社巡りをしていました、遺骨収集を心の中でしていたんだと思います。
ゴミ置き場から汚物を持ってきていました。(最後まで思いが抜けなかった思います。)
私は高校卒業後、手紙を持って東京に就職に行きました。
どうして手紙を持って行ったのか判らない。
私を母が守っていてくれる、辛抱しなさいと、だからここにあるんだと思えるようになってきました。
父と母の対話みたいにしたこの手紙は貴重なものだと思っているので、凄いものを残してくれたと思う、それだけです。
父は喜んでいてくれると思いますが、母は本人なので恥ずかしいと思っていると思います。
戦争はむごいと言うしかありません、思いやりが欠けるとそういうことになるので、人を思いやる心を忘れてはいけない。
それを教えてくれたのが母の手紙です。