2024年9月27日金曜日

大西優子(おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

 大西優子(絵本作家おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

2年前に12歳で息を引き取ったおおにしわかさんの母、大西優子さんのお話です。  大西(42歳)さんは岡山県倉敷市生まれ。(現在東京住まい。) 結婚後二人のお子さんに恵まれました。  長女のわかさんが4歳の時に小児がんと診断されます。 入退院を繰り返していたわかさんはお絵描きや工作が大好きで、夢は絵本作家になる事でした。 大西さんはわかさんが病気と向き合った体験をもとに描いた、絵本「ビーズのおともだち」を出版社に持ち込みます。 プロの協力を得て絵本が完成し、2年前わかさんの12歳の誕生日に出版されました。 わかさんは夢だった絵本作家デビューを果たしました。 その数か月後にわかさんは息を引き取ります。 絵本作家になったわかさんのさらなる願いは、世界中の人を自分の絵本で笑顔にすることでした。 そこで母親の大西さんは絵本の英語の翻訳に取り組み、今年4月から英語版が一般に販売されています。 わかさんが絵本の中に残した言葉「頑張りパワー」を心の支えに、絵本の紹介を続ける大西優子さんの思いを伺いました。

絵本「ビーズのおともだち」表紙がとってもかわいいです。 日本語版は城をベースにピンク色の服を着た可愛い女の子が外を見ている絵が描かれています。 英語版はタイトルが「My Precious Beads」。 日本語版の表紙の絵はプロのイラストレーターが描いた絵で、英語版はわかが描いた絵です。 私とわかにとってとっても思い出のある絵です。 わかは「フーリン(Foorin)楽団」というグループのメンバーでした。 2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人を応援するNHK2020応援ソングプロジェクトの為に結成された「フーリン」と「パプリカ」を踊っていました。 「フーリン(Foorin)楽団」はフーリンの5人と病気や障害のある子どもたち10人の15人のメンバーで、小児がんと向き合うなかでもわかにしかできない経験をさせて貰えて、サポートをいただけてとってもありがたかったです。 新型コロナウイルスにより風鈴楽団」はパフォーマンスを持てないまま、2021年秋に解散が決まりました。 それで次の目標として絵本を作るという事になりました。

小学校に入学したころから夢は絵本作家になる事でした。 最初は折り紙を絵本の様に小さくたたんで絵を描いていました。 タブレットを扱えるようになって、動画になってわかの声もはいったりして、成長を感じる楽しい時間でした。 原作は治療を頑張ってもらった宝物のビーズが・・・(声を詰まらせ泣き出す。) 妖精さんになったらすてきね、という会話から生まれました。  がんの医療を受ける子供達が治療を受けるたびに貰えるビーズです。 カラフルなビーズは手術、点滴、検査などを表わしていて、そのたびに受け取ります。 子供たちに勇気を与えてくれる存在になります。 このビーズが絵本のなかでは妖精に変身します。  名前、衣装などわかのこだわりが込められています。 

わかの絵本の夢を叶えてやりたい私は、出版社に相談することにしました。(2021年秋) 完成が2022年4月、わかの誕生日でした。 わかの笑顔が見たい、と言う事が原動力でした。  わかの原作を元にプロの作家さん、イラストレーターさんに協力してもらいました。 わかが納得いくまで一緒に進めました。 

絵本「ビーズのおともだち」

「シトシトシト ザーザーザー 雨が強くなってきました。 ベッドにいる私の心も雨が降っているみたい。 一人ぼっちでさみしいなあ。 ここは病院です。 治療に検査、毎日頑張ることがいろいろあります。 でもそのたびに一つ ビーズを貰えるのがとっても嬉しい。 はい、今日はこれだよ。 お姉さんんがビーズを呉れました。  わーきれい 有難う  ・・・ 貰ったのは虹色のビーズ。 ・・・虹色のビーズは蝶々みたいな形に変わったと思うと元気な声で言いました。 「はじめまして 私はビーズの妖精レイです。」・・・レイちゃんはこんな言葉を唱えました。「頑張りパワー」 レイちゃんは「私ここに住みたーい」と言いました。 ・・・「大丈夫、明日もうまくいくよ」と言ってくれました。  次の日も雨、レイちゃんの励ましで頑張ることが出来て、二つ目のビーズを貰いました。  今日は星のビーズだよ。 ・・・ビーズは冠を付けた星の妖精になりました。 「はじめまして キラです。」 ・・・「頑張りパワー」キラちゃんがその言葉を唱えると星の世界は宇宙図書館。・・・キラちゃんの優しい声に皆ウットリです。 次に貰ったビーズは白いビーズでした。 ・・。「僕はてんてんてんくんです。」・・・僕たちはコツコツと頑張るのが好き。  「頑張りパワー」・・・積み木を本物のお家にしてしまいました。 妖精の仲間みんなで住めるよ。・・・ 一人だったベッドに秘密基地が出来ちゃった。一つ思い出しました。 コツコツ頑張るとは時々お母さんが言っている言葉です。・・・私はみんなに約束しました。 笑顔で元気にコツコツと「頑張りパワー」そういった時でした。  窓の外に大きな虹がかかっていました。 ・・・みんなのお陰でずーっと頑張れそうです。」

私の生まれは岡山県倉敷市です。 小さいころは泥団子を作るのが好きで夢中で作っていました。 リスを飼っていました。(多い時には12匹) ひまわりを育てて種をリスに食べさせるとがとっても楽しい時間でした。 大切にしていることは夢を見るという事です。  人とのご縁を大切にしています。  私の見た夢を叶えるのは周り人のご縁のお陰だなと思えることが沢山あるからです。  絵本を通じていろいろな出会いを体験して、その出会いを大切にしていきたいです。  今年6月に開催された第16回国際小児がん学会アジア大会があり、そこで絵本を紹介しました。 「世界中の人を笑顔に」の夢を叶えることができると感じて、とっても嬉しかったです。 

ある作家さんからいただいた言葉で「わかちやんは作家さんなので、これからも沢山の人と出会い、人の心の中を生き続けるのだと思います。」と言っていただきました。 わかがお空から見守っていてくれるから、私も頑張ろうと思って生きています。 今も一緒にここにいてくれるんじゃないかと、強く感じるんです。 私が絵本「ビーズのおともだち」をみんなに知ってもらう活動を続けることは、わかが絵本作家として、沢山の人と出会い人の心の中を生き続け、世界中の人を笑顔にすることができると感じています。 わかは辛いことが沢山あったのに、そんなことを感じさせないぐらい明るくて、笑顔で私に幸せを与えてくれました。 わかのことをこうしてお話が出来て、繋がりが出来ている快感があると、嬉しいです。 

「ビーズのおともだち」のステージや、絵本展などを開催して、皆のところに会いに行く機会を作っていきたいです。  わかの貴重な経験を道徳の教科書や沢山の人が読めるように、乗せて欲しいなあとおう願いがあります。 小児がんと診断される子が日本では2000~2300人ぐらいと言われています。 他にも沢山の障害の人がいると思います。  わかの経験をみんなが共有できれば、本人、家族、周りの人の経験知?になれるのではないかと思います。 














2024年9月23日月曜日

2024年9月21日土曜日

一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

 一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

関西の水がめにして、日本最大の湖「琵琶湖」に生息するプランクトンの研究をほぼ半世紀にわたって続けているのが滋賀県琵琶湖環境科学研究センター元特命研究員で工学博士の一瀬諭さんです。 一瀬さんは昭和27年福井県高浜町生まれの71歳。 その研究の始まりは1977年(昭和52年)当時琵琶湖では大規模な赤潮が発生して社会問題化していました。  その年の春人事異動で当時の滋賀県立衛生環境センターの勤務となったことから、琵琶湖のプランクトンの調査をスタート、以来半世紀弱に渡ってこの道を極め、現在は工学博士としてプランクトンを研究するとともに、国内外での環境教育にも尽力しています。 普段私たちが意識する事のないプランクトンの世界、そこから一瀬さんが何を読み取り、何を伝えたいと考えているのかお話を伺いました。

プランクトンは顕微鏡でしか見えないものという印象がありますが、実はクラゲなどもプランクトンです。 水に漂って生きている浮遊生物という事で一番でかいのがクラゲです。 琵琶湖ではノロミジンコというミジンコがいます。 肉眼でも見えます。 大きいものは1cm近くになります。  透明で肉食性のミジンコです。 琵琶湖には植物プランクトンは600種ぐらい、動物プランクトンは300種類ぐらいいます。 ダム湖などは5~10種類ぐらいしかいないところが結構あります。 琵琶湖は浅いところから深いところまであり、いろんな環境があり、川からなあれてくるものもあるので、種類が多いです。

赤潮が発生したころは、高度経済成長期で川からいろんな汚れた水が流れ込んで出来ていたので、冨栄養化が急激に進んだ時期です。 赤潮が異常発生しました。(1977年ごろ)ちょどその頃に移動してきました。  赤潮の発生メカニズム、どんな生き物か、水温、水質など全くわからない時代でした。  職場に向かう時に毎日水をサンプリングして、自分の興味でノートにつけていました。  ウログレナという赤潮が出始めていつごろ一番ピークに達して、いつ頃ごろ無くなるかというのを日記的に付けて行ったのがスタートでした。  生臭い臭いを発生して、水道の水が生臭くなり、京都、大阪も困っていました。  その内容が電子データ化されるようになりました。  赤潮の研究をやっていたのでそのころは植物プランクトンだけでした。  動物プランクトンも必要ではないかという事で20年前ぐらいから動物プランクトンも入れています。 動物プランクトンでは第一優先種はワムシ類で1リットル中に120個で、第二優先種が甲殻類でノープリウス幼生(ケンミジンコの赤ちゃん)で1リットル中に100個ぐらい。 春夏秋冬でいろいろ変わって来ます。 

プランクトンを数える計数板があり1000マスに区切ってあります。 マスを順番に見て行って1ccの中に何個あるか、判るわけです。  小さなものは100マス数えて10倍するとか、2マス飛ばしにするとか、マニュアルが出来ています。 判らない種類は顕微鏡で写真を撮って京都大学の有名な先生のところに行って教えてもらいました。 「継続は力なり」と言いますが、ずっとやっていると見えないところのものが見えてきるようになってきます。 辞めたいと思うような時期も最初の10年ぐらいの時にはありました。 絶滅危惧種を見つけたり、新種を見つけたり、続けていかなければいけないというようなポジションになったりして、気が付いたら50年という感じです。 

絶滅危惧種にビワツボカムリというのがあります。 すでに絶滅した可能性があります。 有殻アメーバと言って殻を砂粒でセメントで固めて自分の殻を作ってしまう。 砂粒がなくなって来ると、殻が作れなくなってしまう。 琵琶湖の底の環境が変わってしまったと思われる。 プランクトンのカレンダーを作っています。 今迄と違うプランクトンの動きがあると水質の変化、プランクトン数の変化をデータベースで自動的に見出だしている。    昔に比べるとプランクトンの種類、量も減ってきています。   水が綺麗になるという事とプランクトンの量が減るという事は同じことで、長い目で見ると綺麗になってきています。 魚介類もとれなくなってきていて、プランクトンが少なくなると餌も少なくなってくる。 難しい問題をはらんでいます。 

プランクトンの量で考えるのではなく、質的なことも考えないといけない。 緑藻類から藍藻類が増えています。 プランクトンは目に見えない有機物をもっているんです。 その量も昔と今とでは大きく違います。 そのことを発見しました。 昔に比べて難分解性の有機物が残ってしまう。  突き詰めてゆくと琵琶湖の中で増えているプランクトンの質の変化が大きく影響しているという仮説を立てて論文を書きました。 猛暑になったりしてくると、暑いところを好む藍藻類、シアノバクテリアなどが優先しやすくなる。 あおこの発生が有ったりして、毒性が有ったりカビ臭があったり、障害として出てくる。 あおこの発生で光が届かなくなり、表面にいるプランクトンだけが増えて下の方のプランクトンが増えられない。 藍藻類が増えるという事は良くない。 

地球上では毎年4万種類が絶滅していると言われる。 多様性が失われてきている。 生物が生きてゆくための環境多様性がある。 種の遺伝子の多様性があります。 そういったもので生態系が成り立っているので、判ってもらう必要があります。 生態系の勉強について外国に行ったり、子供たちへの対応も行っています。 是非動いているプランクトンを観て欲しいと思います。





2024年9月20日金曜日

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの 

富山さんは1957年茨城県生まれ。 1978、79年と世界選手権を連覇し、1980年のモスクワオリンピックでは金メダルは間違いなしと言われていました。 日本が不参加を表明したために幻の代表となりました。 4年後のロサンゼルスオリンピックで金m樽を獲得しています。 現役を引退した後はオリンピックのコート、監督として後進を指導し、現在は日本レスリング協会会長となります。 

現役のころは57kg級、今の体重は64kgぐらいです。 パリオリンピックに目標は金メダルが6個という高い目標でしたが、結果は8個の金メダルでした。 実力が大事ですが、オリンピックは実力だけではない何かがありますね。  悔いのない試合をしなさいと言っています。  少年少女レスリング大会がり、第40回になり1000人近く参加しました。   高校ではレスリング部は、我々の時代には320ぐらいでしたが、今は250~260ぐらいです。

「夢を喰らう」という富山英明さんの生き様を追ったドキュメンタリー映画。 勇気づけられるという反響がありました。 藤森圭太郎さんが監督。 8年間を追った。 中学2年でレスリングをやらないかと声を掛けられました。 日記に夢を書いていって、縁があって出版してその本を藤森さんがみて、お会いしたいという事で。結局映画になりました。 10月12日から東中野で上映が決まっています。(新宿ではすでに上映した。)  

子供の頃は自然のなかでいろいろ遊んでいました。 兄が柔道をやっていたので始めましたが、身体が小さいのでなかなか勝てるチャンスがありませんでした。 先生から声を掛けられて、レスリングを始めました。 試合に出て初めて優勝しました。 高校で寮に入って、練習は半端ではなかったです。 人一倍早起きをして取り組みました。 日本大学に入学、1978年(20歳)から全日本選手権を7連覇しました。 当時は全日本チャンピオンは世界チャンピオンでした。(52,57kg級)  世界選手権でも78年、79年と金メダルを獲得しました。 モスクワオリンピックが世界の頂点を目指すところでした。 におhン政府がボイコットを発表。 いっときはどうしようかと思いました。 スイッチを切り替えてロサンゼルスを目指し、金メダルを獲得しました。(26歳)   スタミナ、スピード、瞬発力、集中力というか精神的なものがあります。 

金メダルを取ったことは夢ではなかったと、一晩過ごして朝に実感しました。 自叙伝の表紙になっているのが金メダルを口にくわえて居る写真です。(その後よく見る光景となる。) 金メダルを取ったというのは瞬間だけですね。 直ぐ日常のトレーニングになります。  ロサンゼルスで金メダルを取ってやっと終わったと思いました。 アメリカに留学してコーチ学を1年間学びました。  帰国後1988年ソウルオリンピック1992年バルセロナオリンピック代表のコーチを担当、2004年アテネオリンピック2008年北京オリンピックでは監督を務めました。 道場に入るとスイッチが入って、身体に芯が出来ると言った感じです。 2:2:6の法則があると言われますが、なにも言わなくても2割はやるが、何言ってもやらないのが2割で、6割をどっちに持っていくかでその組織は動くとよく言われる。 6割をどういう風に持っていくかで勝ったり負けたりする。 

これからの指導者は心理学を勉強したり、いろいろ経験したり、いろいろあると思います。 オリンピックに12回関係していますが、観客として観たのが今回のオリンピックが初めてです。 8回も君が代を歌ったのは初めてです。 いろんな人たちと知り合いになってそれが財産になります。 母親からは「稲穂だよ。」と言われます。(頭を垂れなさい。)   「会長になってもみんなの力なんだからね。」と言われました。 謙虚で居なさいと言われます。  現役の選手には「勝っても天狗になるな。」とは言います。 勝つのは一瞬で、現役が終わった後は長いから、きちっと謙虚にやらないと人生楽しくないよ。」と言っています。 いろいろな人にお世話になって、恩を返してゆくという事を思っています。 形あるものを残したいと思います。  2028年ロスアンゼルスオリンピックで、70歳になりその後が全て終わると思います。(会長職、大学など)














 

2024年9月19日木曜日

岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

 岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

岡本さんは山口県生まれの76歳。 14歳の時にNHKの連続ドラマ「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で子役デビューしました。 以来、「肝っ玉かあさん」や「渡る世間は鬼ばかり」など民放のホームドラマで活躍、NHKの大河ドイラマ「鎌倉殿の13人」では源頼朝を支えた重鎮の一人、 千葉常胤を演じて人気を集めました。 岡本さんはまた野草の人としても知られ、野草の観察や調理に関する本も出版しています。

千葉常胤は勇猛な坂東武者ですが、決して野心家ではなくて堅実で土の匂いのする武将だと感じました。 演じる上で意識したのが無骨さと誠実さです。 千葉常胤のオファーが来た時には当時は73歳でした。 そろそろ終活しようかなと思った時期でした。 野草の観察と同時に一日5000歩から8000歩のウオーキングをしています。 発声練習もして生活も規則正しくしています。 20代から体形、体重は変わらないです。 

父親がシベリア抑留されて、肺結核を患ってその治療のために色々な市に移り住みました。 そこで私は野生児になりました。 母は野草を摘んで、食卓には野草が並びました。 一緒に摘んだりしたのが野草の原点となりました。 萩市には小学校3年から6年まで居ました。 人生の中で一番楽しかった場所では無いかと思います。 その後父の仕事の関係で東京に引っ越しました。 自然の全くない環境でした。  友達も出来なくて、父が心配して児童劇団に応募し、合格しました。  「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で福沢諭吉の友達として子役デビューしました。(14歳)   大学に行きながら出演している時に父が「もう芝居を辞めて建築の勉強に専念するように。」と言われたのですが、「肝っ玉母さん」が終わったらやめると言ったんですが、次々とホームドラマに出演して、そのままになってしまいました。 

石井ふく子先生との出会いが、僕の俳優人生を決めたと言ってもいいです。 出会って後から「肝っ玉母さん」の出前の健ちゃんに決まったと言われました。 そこから俳優の道が開けていきました。  ホームドラマなので身のまわりにいそうだなという風に受け取ってっもらえればいいかなと思います。  先生と一緒に野草を摘んで、先生のお宅で料理をして食べました。 先生は野草を食べたこともあるので美味しかったと言っていただきました。 ハコベの炒め物が一番おいしかったと言っていました。 

20代の前半に一人暮らしを始めた頃に、多摩川の土手でつくしの群生を観ました。 よみがえって摘んで炒めて食べたらまずかった。(あく抜きをしなかった。) 以後図鑑で調べるようになりました。 食べられる野草が一杯あり、レパートリーを広げていきました。  出版社の人の耳に入って本になって、テレビからも声がかかって、野草を食べる人、雑草を食うおじさんという事で一気に知られるようになりました。 野草は知れば知るほど奥が深いんです。 過酷な環境でも懸命に生きてゆく逞しさに生きることを教えられます。  野草はド根性です。 

9月の後半になると、つゆ草、ゆきのした、いぬびゆ、すべりひゆ、たんぽぽ、おおばこ、10月になるとむかごなどです。 料理法としては天ぷらが一番ポピュラーです。 よもぎ、ゆきのしたは天ぷらにいいですね。  ドクダミも天ぷらにすると匂いが80%オフになります。 すべりひゆはアクが強いので、アクだしをした後で一晩水に浸けておくと、水が真っ赤になります。 油で炒めて味噌と一緒に食べるとつまみになります。 つくしはハカマを取ってアクぬきをして煮て卵でとじて一緒に食べるとおいしいです。 私はヨモギが好きです。 天ぷら、草餅にするのもいいです。 

歩きながらセリフを覚えながら、野草を観察し、声を出したり忙しいです。 野草の様に精一杯生きた後に、潔く枯れて自然に帰るというのがいいなと思っています。 〔わたし終いの極意〕としては野草の様(野草の精神で)にという事です。













2024年9月18日水曜日

青木 功(プロゴルファー)         ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功(プロゴルファー)    ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功さんは日本のプロゴルフ界の第一人者であり、1983年のハワイアンオープンで日本人として初めてのアメリカPGAツアーで優勝するなど世界の青木として海外でも活躍し、2004年には日本人男子ゴルファーとして初めて世界ゴルフ殿堂入りを果たしています。 今年8月31日に82歳になった青木さんは、プロテスト合格が1964年(昭和39年)で、プロゴルファー生活も60年になりました。 

東京オリンピックの年にプロになりました。 松山選手の銅メダルですが、当人としては常に日本代表という事は頭にあったと思います。 2021にやった時に、負けた悔しさ、国を背負ってという事は並大抵のものではないと思います。 私は1973年にワールドカップに中村通君と行って、1983年ぐらいにジャンボとベネズエラに行って、中村通君とはスペインに行きましたが、日本代表というのは凄く重いですよ。

1962年にプロテストを受けましたが、落ちてしまいました。 1964年の2月に一次予選、3月に二次予選、4月に予選、5月に本番でした。 日本海外合わせて85勝。 初優勝に7年掛かっています。(30歳)  研修生の時には1万5000円の給料でした。 プロになると3万5000円になり、楽に暮らせるようになり、練習もしないで4年ぐらい遊んで暮らしていました。 先輩から言われてトレーニングをするようになりました。  1983年の日本オープンで優勝。   フックボールをスライスに直すためにたまたま零下3℃ぐらいで、雨も降ってきてそのなかを4,5時間ぶっ通しやってそれで直しました。(その日に直さないと直らないと思っていました。)  ご飯を食べる時に手が開かなくなりました。 

1976年賞金王、4年連続賞金王、そのころから海外に出かける。 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。1980年全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。1983年ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。84年オーストラリアで優勝。 当時はお金を稼ぐのには日本が一番大きかった。 海外の人がどのようにゴルフをやっているのか、好奇心がありました。 

その間に結婚をして妻が英語が出来たので助かりました。 アメリカに行った時には一か月半ぐらいで5試合ぐらいやりますが、4試合連続で落ちた時もありました。 ピザ屋でしか食事をしないこともありました。  最後に予選を通過した時には優勝したみたいな気分になりました。  アメリカでは簡単にはゴルフを受け付けてくれない。 

英語は余り出来ないのでコミュニケーションを取るのが大変でした。 1995年シニアのメジャータイトルをかけて再度ジャック・ニクラスとプレーオフまで行って、2位になりました。 ジャック・ニクラスと7,8回プレーしましたが、一回も勝てなかった。         

南アフリカに行きました。 当時アパルトヘイトの人種隔離政策があって、日本政府は渡航、文化交流も禁止の時代でした。 当時の外務大臣の安倍晋三さんからはビザは出せないと言われましたが、でも先生に「スポーツには国境があるんですか」と聞きました。 しばらく考ええて「そういえばないな」と言って、貰う事が出来て出かけました。(妻と娘も一緒に行きました。)  言ってよかったと思います。 その翌年アパルトヘイトは解除になりました。 

グレッグ・ノーマンと会った時に「功も俺もビジターだな。」と言ってくれました。 お互いが訪問客だなといって、一生懸命やろうということで一緒に回りました。 その後84年にアパルトヘイトに行った時に、功と妻と娘が住めなくなったら住まわせてやろうと言って、自分の棟の隣の家を買ってそこに住まわそうとして、我々の為に買ってくれたんです。(解除になったので家は売却したそうです。) 彼とは親友です。

海外では初めてのコースなので、芝をつまんだりいろいろやっています。 自分が苦しんでいるのなら、他の人はもっと苦しんでいるはずだと思った時に気が楽になりました。 行ってはいけない方向に行ってしまうのは、よけようとするから行ってしまう。 もう一寸飛ばそうと思うと、余分な力が入って身体が開いたり手がぶれたりします。 練習をやって如何にに自信を持つか。 プロになるのが遅かったので、5年を追いつくには人が寝ている時にやりました。  歌とゴルフはいくつになってもできると思います。 やれるうちはやりたい。














2024年9月17日火曜日

廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

 廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

東京上野にある永寿総合病院がん診療支援・緩和ケアセンター長の医師廣橋猛さんは47歳。  がんのケア医として長年がん患者に寄り添っています。 しかし去年自らが甲状腺がんと診断され、手術で甲状腺と周辺のリンパ節を除去しました。 自分ががんになる前は医師の立場でしか判断できなかったことが、患者の立場になって初めて気付いたことが数多くあったと言います。 「がん緩和ケア医がガンになって初めてわかったこと」と題してお話を伺いました。

体調は回復してきました。 自分はがんにはならないだろうという変な思い込みがありましたので、ショックでした。  父は病理学、がん細胞を顕微鏡で見て診断する医師でした。  祖父も医師でした。 東海大学の医学部を卒業後、最初は内科の医師になろうと思いました。 内科医としてがん患者さんに多くかかわって来ました。  辛さをやわらげることに遣り甲斐というか、緩和ケアのことを勉強したいと思いました。  結局どっぷりはまることになりました。  患者さんの人生の過ごし方、特に終わりに近い時の過ごし方を、一緒に相談に乗って人生を一緒に考えることができるという部分に魅力を感じました。    痛み、辛さを取るのには薬だけではなくて、過ごし方、希望を叶えることが患者さんを和らげるのに、非常に意味があるという事を学びました。  一生付き合っていかなければいけない病気になった時に、気持ちを穏やかに過ごす事、過ごしたいように過ごすとか、自分で人生を選べるとか、そういったことが大事だと思います。 先生と話して元気になりましたと言われると自分も嬉しいです。 パワーを与えられるような診療をしたいと思っています。  

甲状腺は喉のところに右葉,左葉と別れていて、そこを繋ぐ橋部があって、私の場合は、その3つの臓器にがん細胞が認められました。  後で判ったことですが、人よりもちょっと首が晴れているのではないかと言う事と、体重がやや落ち気味でした。 手術後には大きな声が出せないとか、ちょっと声の質が違うという感じはありました。(特に退院直後)   或るタイミングの時を見計らって、周りの医師などには説明しました。(診断後1か月後) 妻は元看護士でしたが、妻も聞いてショックだったと思います。  私自身、がんに対する知識があるので、合併症とかいろいろなことがあるので、遺書を書いておこうと思いました。 胃がんと肺がんではまるで違う病気です。 がんが転移してゆく事は特徴としては一緒ですが、がんはみんな違う特徴があります。 自分自身のがんの特徴をしっかり踏まえて向き合うことが大事だと思います。 

相性の合う先生と出会えるかという事も大事です。(話を聞いてもらえる。)  SNSでがんのことを公表しました。  緩和ケア医だからこそ気付けることがあると思いました。 親近感を持てる先生だと皆さんが感じてくれて、認めて貰えるきっかけになったかもしれません。  逆に励まされることにもなりました。  同じ病気の方から言われると、こちらも救われます。 患者さんの辛い事、困りごとを直ぐ医療者には言えないことは当たり前だなと思いました。 手術後の痛みについて、忙しさが判るのでつい我慢してしまう事がありました。 医療者に言う時には、その前に我慢している長い時間があるんです。(医師はその時点からと思ってしまう。) 痛み止めも効いて来るのには時間もかかります。 

がん患者に対して周りが良かれと思って、いろんな怪しい情報も持ち込んできます。   患者さんは正しい情報をしっかり身に付けるという事も大事です。 がんになってしまうと再発などつい色々なことを考えてしまうが、一人の人間として、日常生活、仕事、趣味、楽しいことをがん患者ではない人と同じように、時間を使って欲しいと思います。 緩和ケアは死が近い人が受けるケアで、がん治療をしている人は、まだ早いと思っている方がいると思いますが、それは間違いで、辛さを和らげる治療でがん治療をしながら緩和ケアを一緒に受けて、辛さを和らげて治療がうまくいくように進んでほしい。  

こんなことは自分には起こらないだろうという事、予想外の出来事は人間は必ず体験する。  がんになって悪い事はあるが、学ぶ事もあります。 自分の人生の有限性を踏まえて、これからの人生の歩み方を決めるきっかけになったのかなあと自分は思っています。 後でいいやとは思わなくなりました。 忙しい中でも周りに言って、富士山キャンプをしました。 病気の前はフルパワーでやって来ましたが、体力的に以前ほど続かなくなったという事はあり、休みを取らないと後々響くという事を実感しました。  自分の人生の有限性を踏まえ、自分のやりたいことを成し遂げるという方向にシフトしました。 患者さんの気持ちをより同じ立場でわかる医師でありたいとは思います。 緩和ケアの仕事をより深めていきたい。  胃がん、肺がんなどは5年経てば再発の可能性は少ないと言われていますが、甲状腺がんは20年間は心配なところがあります。 ついもしかして、というような思いがあり、それは死ぬまで拭い去れないと思います。  ですから一生がん患者なんです。  それを受け入れた中で、一生歩んで行こうという覚悟は持っています。