2024年3月6日水曜日

山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年

山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年

13年前東日本大震災で津波発生の翌日から職場の美術館に泊り、突き動かされたかのように被災した品々を集め、被災した街の風景をカメラで撮り続けた人がいます。 宮城県気仙沼市にある公立美術館「リアス・アーク美術館」の館長で、当時は一学芸員だった山内 宏泰さんです。 震災を経験した自分たちの視点で被災状況を記録し、後世に伝えたいという思いからだったと言います。 震災の2年後から東日本大震災の記録と津波の災害地と名付けた常設展示を始めました。 中でも話題を呼んだのが、徹底的な聞き取りをもとに被災したものにまつわる創作ストーリーを書き添えた点です。 山内さんはどんな思いで被災した街を見つめ暮らしの痕跡であるものにストーリーを綴ったんのでしょうか。 又能登半島地震が発生し、大きなh害を受けた方々がいらっしゃるなかで、今どんなことを思うのか伺いました。

「アーク」は箱舟と言う意味で、建物全体が箱船のような形をしています。 造船技術が対応しているもので鉄板が構造物のあちこちに入っています。 さまざまな生き物、文化と言ったものを次の世代につなげるための船なわけです。 美術館という事で地域性の高い作家さんも扱っていますが、常設展としては歴史民族系の常設を持っています。 震災の記録の常設展示も作っています。 総合博物的な運営をしている館という事です。 

鰹にまつわる文化のコーナー、九州、四国、関東あたりまでの鰹はルビー色の脂身の少ない登りガツオですが、三陸沖まで来ると、特に秋には猛烈に脂ののった鮮度のいい鰹が水揚げされる街が気仙沼と言う事です。  鰹の水揚げ量はずっと日本一です。 カツオ漁で使われる棹が展示されていますが、4m前後です。 グラスファイバーで出来ていて重たいです。 それに鰹は大きいと70cmぐらいになるので、相当な重さになります。 

東日本大震災の記録と津波の災害史と名付けたもう一つの常設展示、壁一面に写真パネルが掲げられている。 2011年3月24日に気仙沼市内で撮影された沢山の流出物が押し寄せている写真が掲げられている。 写真が203点、被災物が155点、災害史系の資料が135点ぐらい、全体で500点ぐらいの資料があります。 一番早いのは当日美術館の屋上から撮っています。(15時30分)  高さ100mぐらいの白いものがもうもうと見えるわけです。 津波で破壊された家屋の巻き上げられてゆくホコリだと思います。   夕がたになると闇の中に赤あかと燃え盛っています。 12日間燃え続けます。         15日の日に学芸員で、今後どうするか、話し合いをしました。  美術館の再開は無いかもしれない。 街は壊滅している。 しっかりと記録に残して、それだけはやろうという事で16日から現場に出ました。 

3階建ての建物の前に、それを覆うぐらいのい高さまで様々な被災物が山積みになっている状態でその前に長靴履いて立っているのが私です。 私の自宅があった場所の斜め向かいです。 これを眼にして呆れている状態です。 津波は陸に上がってくると流れてくるものは固形物です。 フロアーの中央には津波で押し流された様々な流出物が展示されています。 

2011年の出来事が起こる前から津波に関しての調査、研究を私はしていました。   1896年(明治29年)三陸地震、津波があるんですが、死者数が約2万2000人、被害エリアが2011年と非常に近い。 その37年後の昭和8年(1933年)にも昭和三陸地震、津波が来ていて、死者が3060名ぐらいです。 それから27年後1965年(昭和35年)チリ地震津波、全国で142名亡くなっている。 そのうちの100名ぐらいが岩手、宮城の沿岸部になっている。 そこからたまたま50年空くんですね。 2010年にふたたびチリ地震、宮城県は養殖業が壊滅、激甚災害になっていました。  東日本大震災はその翌年です。  2006年ぐらいから地域住民に備えて下さいという事を伝える活動をしていました。  当時は全然興味を持っていませんでした。 

2006年当時、国が宮城県沖を震源とするマグニチュード8を越えるような巨大地震の発生確率30年以内で99%と言われていた。 最短20分で10mを越える津波が三陸沿岸部に襲来しますと、科学的に想定されていた事実です。 護岸整備などを整えていて、それで大丈夫だという風に宣言していた。 それを信じて50年間実際に津波は来なかった。 作ったから大丈夫とどっかで勘違いしていた。 2011年に津波が来て、皆想定外だというんです。 前例がない、1000年に一度の災害だと言いだす。 展示のベースになっている記録調査をやらなければならないという風に使命感を持った最大の理由は、そういった嘘を言い始めたことに対する怒りです。 40年に一回は大津波が来ているんです。 防災は現実には無理なんですが、減災は可能なので日頃から意識して、避難先には備蓄の食品があるとか、避難所にはせめて100人が10日ぐらいは用を足せるぐらいの、汲み取りのトイレぐらいは作っておくべきだと思います。

二つ折りの携帯電話が開いた状態で多く見つかったりするが、話している間に津波に被災してしまう事が多いのではないか、まずは兎に角逃げて欲しいという思いで、創作ストーリーで心に訴えたいと思いました。 足踏みミシンの創作ストーリーとか、炊飯器など共有しやすいものを選んでいます。 

小さいころは飯時間、寝る時間以外は家にいないような子でした。 絵は好きで、図画工作、陸上が好きでした。 勉強は大嫌いでした。 宮城教育大学中学校美術教員養成課程卒業、同大学院入学(リアス・アーク美術館勤務のため9月で中退)。  美術館にはすでに採用されていた人が居ましたが、開館の2か月前に辞めたという事でした。  地域の人とはとことん酒を飲んだり食べたりして仲良くなって行きました。 15年ぐらい経つとよその人間だという事が大分薄れて来ました。  17年目には大震災となりました。 震災発生1年後に他県の大学から声がかかりましたが、離れるのは無理だと断りました。

一番大きかったのは、ここに来ると何て言ったらいいかわからなかった、どう表現したらいいのか判らなかった言葉が、その言葉が全部あるというんです。  皆さんが共有できる言葉を提供するという事は目標の一つでしたから、感想として多かったので良かったです。  復旧復興事業が始まる前に、自分たちがどういう状況に置かれていて、何を今から考えなければいけないのか、何を失って何を取り戻さなけれいけないのか、必要なことは何か、不必要なことは何なのか、そういう事をちゃんと考えられる脳にセットしたかった。 皆言葉を失っていたので。 だから急ぎました。   

能登半島地震では古い家屋が沢山倒壊しました。 撤去作業が進められているが、家の下にある大事なものとかも区別なく撤去されてしまう可能性がある。 そういったものを大事に扱うという事を早い段階から訴えてはいます。  残さなければならないという意識があれば、大きい間違いはないと思います。  貴重な奥能登の文化を根こそぎ破壊されてしまうような事だけは、それは完全な人災ですから、何とか阻止しなければいけない。




















2024年3月5日火曜日

石渡博明(国際視覚障害者援護協会 理事長)  ・途上国に“あはき”の技術を

石渡博明(国際視覚障害者援護協会 理事長)  ・途上国に“あはき”の技術を 

国際視覚障害者援護協会は、アジアをはじめとする発展途上国の視覚障害者を招き、日本の盲学校への支援や按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動を続けてきました。 1971年の創設以来、これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。   その取り組みが国際文化交流に大きく貢献したとして、このほど独立行政法人国際交流基金から地球市民賞を貰いました。 この取り組みの意味そして石渡さんの思いなどについて伺います。 

私たちの団体は発展途上国の視覚に障害のある若い人たちを日本にお呼びして、日本の盲学校で按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動をしています。 これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。 「筑波盲」で勉強している人が2人、筑波技術大学が2人、京都府立視覚障碍者福祉センターで勉強している人が1人います。  マレーシアが1人、キルギスが2人、モンゴルが1人、ミャンマーが1人です。     基本的にはある程度日本語をやった人、日本点字もできる人となります。 

初代の理事長が韓国の方で、日本で勉強したいという事でしたが、当時は心身に障害のある人は留学生になれないという、規定がありました。  日本にいる韓国の親戚に身を寄せて勉強したいという事で、千葉の盲学校で勉強しました。  台湾とかほかの人4人と親睦団体として国際盲人クラブ(ICB)作りました。 韓国のその方が大学の卒業論文でアジアの視覚障害者の実態調査をしました。 日本に来るシステムを作りたいという事で留学生奨学生制度を作りました。  それが現在に至っています。 

視覚障碍者にとっては身近にマッサージがありますが、日本の様に体系だった勉強が全くありません。 アジアでは盲学校が非常に少なくない国もあります。 私どもの研修施設で寝泊まりをして日本語の勉強、日本点字、歩行訓練などを予備研修としてやります。(6か月) 付いていけなくて帰る人も少ないですがいます。  戻ってからは福祉の分野、教育の分野などでも力を尽くしています。 

私は神奈川県横須賀市1947年生まれです。(76歳)  中学で急に視力が落ちました。 「奇跡の人」が上映されたり、「目の見えぬ子ら」と言う本が出て話題になりました。 視覚障害に興味を満ち始めました。  大学受験では人の役に立ちたいという事で、東京教育大学特殊教育学科の視覚障害を選びました。  大学紛争の時代でほとんど勉強はしませんでした。 通産省の外郭団体で働いていました。  海外から技術者を呼んで勉強させるための企業に支援金を出す団体です。 私は日本語の先生をやったりコーディネーターなどをやっていました。 初代の理事長が韓国語の通訳としてきていました。 手伝ってほしいと言われて手伝うようになりました。 定年退職した年に、週一回ボランティア出勤をして翌年毎日来てほしいと言われて、2010年から理事長になりました。  

2000年から文科省から補助金が出ましたが、いろいろな支出は全国の寄付で賄うというような状況でした。 安定的な財源がなかった。 2018年には文科省から補助金が打ち切りになりました。  廃止の話もある中で、6か月研修を3,4か月にしたりして対応してきました。  留学生が帰った後のフォローもしてきました。(情報交換など)

台湾の方(全盲)、モンゴルの方が最近始めたことが印象的です。 日本のような系的な勉強を一から学びたいという事で日本に来て3年間盲学校にお世話になって、国家資格も3つ取って、帰国後も頑張っているという事です。 モンゴルの方はある程度日本語を勉強してから来ましたが、頑張り屋さんで盲学校卒業後国に帰って、もう一度日本に来て筑波技術大学の大学院で勉強して、国に帰ってモンゴル盲人協会立の職業訓練学校で先生として後輩の指導をやっています。  自分で立ち上げて盲人のための幼児教育を始めました。 地方の目の悪い子供たちを捜し訪ねて、日本の協力も得て、施設を作るという事をしました。  日本に行って国際視覚障害者援護協会でいろんなことを学んだので、彼女は日本の援護協会のミニ版を作りましたと言っていました。  私はこの仕事をしていて一番感じるのは、出会いが凄く大事だという事です。 留学は大事なことだと思います。 文化、人を肌で感じることが大事だと思います。  続けてゆくためには財源と後継者が大事です。















2024年3月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふむ

 穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふむ

ゲスト:笹公人さん

「終楽章」と言う最新歌集の内容についてと、「新短歌入門」と言う入門書について。

1975年東京都生まれ、17歳のころ寺山修二の短歌を詠んだことがきっかけで、短歌を始める。 1999年未来短歌会に入会。 岡井隆さんに師事。 2003年第一歌集『念力家族』刊行。 後にNHKでドラマ化されました。 その後『念力図鑑』、『念力ろまん』などを発表、最近の歌集は父親の介護を詠んだ『終楽章』です。 去年出版された『新短歌入門』はNHK短歌のテキストの人気連載『念力短歌入門』を書籍化したものです。 現在は「未来」選者、俵万智さんとアイドル歌会の選者も務めています。 大正大学客員准教授でもありミュージシャンであり、作詞家でもあり幅ひろく活躍しています。

『終楽章』は2年前の夏に出ました。 
*「パトカーに乗せられ帰宅した父はあっけらかんと巻き寿司を食う」     笹公人   そのころ自分が20歳代に戻っていたようで、僕のことを兄貴と言うんです。   当時慶応大学のワグネルと言うオーケストラのコンサートマスターのヴァイオリンをやっていて、ヴァイオリンの稽古に行くと言って、夜中に出ようとするんです。  見張っていてもどこかで脱走してパトカーに乗せられて、何もなかったかのように巻き寿司を食べていました。
父は80の後半です。

*「幾たびも死ねと念じたことがある父のひげ剃るシェーバーの唸り」     笹公人   右半身が動けなくなり、僕が髭を剃ってあげる。  父とは趣味が合わないというか、厳しかったですね。 伊藤一彦?先生の歌を或る時に読んで
*「ベッドの父のむつきをかおるを喜びと死たる二月今ははかなし」? むつきはおむつですね。 お父さんのおむつを替えることを喜びとしてと書いてあって、衝撃を受けました。  

最後の親孝行と思えば気持ちが切り替わって、短歌で気持ちが変わることがあるんだと思いました。  

*「ゴム手袋を二重にはめて香たいて気合いで父のおむつ替える」       笹公人   リアルですね。   

アイドルと笹プロデューサーが短歌をQ&Aをやって行きました。 

サキサキセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず」 佐々木信綱   穂村:サキサキはセロリを食べている音だが「オノマトぺ」(擬声語)についての質問に対して具体例を示している。 サキサキとシャキシャキでは短歌にした時、何倍も違う。

平安時代の中期に藤公任が上の句で風景を表現して、下の句で自分の心の面が歌の基本の形であると、説いていることを知って、それを僕は知ることでスランプを脱出することが出来ました。 伝統と現代文化とつながる部分を意識して書いています。

穂村:僕は入門書を読むという発想ななかったですね。 入門書は書いたことがなかったです。 口語、文語についても文例を上げて受ける雰囲気の違いを説明しています。

「終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて」     穂村弘                語順によってもその場の雰囲気が違ってくる。

結社離れが心配です。 毎月締め切りがあるので、締め切りがないと何とかそれまでに作って、ああ短歌って面白いみたいなことはあると思います。 自分とは違う世代と交流が出来、勉強ができる。 結社に入りやすい環境を整えることも必要かと思います。 





















         





       

2024年3月3日日曜日

佐々木優子(声優)            ・〔時代を創った声〕

佐々木優子(声優)            ・〔時代を創った声〕 

ちびまる子ちゃん』のこたけおばあちゃん、「サンドラ・ブロック」や「ニコール・キッドマン」、「エリザベス・ミッチェル」、「メグ・ライアン」など女優の吹き替えでも活躍中です。 1990年からこたけおばあちゃんを担当。 ちびまる子ちゃん』は今年で35年目になります。 あっという間でした。 はじめたときは20歳でした。 老け役は一回もやったことはありませんでした。 オーディションもなく監督から指名され、なんでという感じでした。 

横浜出身で小さいころはお転婆でした。 幼稚園の年長組ぐらいから小学校1年まで児童劇団に入りました。 舞台には憧れました。 中学では演劇部に入りました。 文化祭ではシェークスピアをやったり、3年で部長になってピーターパンを現代風にしたりして脚本も書きました。 高校ではテニス部に入りました。 進路を悩んで、日本テレビ音楽学院と青年座は残って両親の意見が違うなか、最終的に日本テレビ音楽学院に通う事になりました。 声優の勉強もあり特待生3人の一人にも選ばれて、水曜ロードショーに見学にも行けることになりました。 でもアテレコには興味はなかった。  或る時に本番中にセリフのひと言がない事で止まってしまって、セリフの重要性に気が付きました。 初めて声の仕事に興味を持ちました。

「がんばれベンジー」が最初の作品です。(1979年) プレッシャーが凄かったです。1990年ちびまる子ちゃん』をやることになりました。 原作をみてもあまり出てこないししゃべらない。 祖母がだみ声なのに或る時に、バレエシューズを手に持って「年寄りってかわいいのよ。」とだみ声から少女のような声で言ったんです。 それが妙に印象に残っていました。  キーの高いおばあちゃんにしようかなと言う風に思いました。  やってみたら駄目とは言われず、原作者のさくらももこさんからは可愛いおばあちゃんにしてくれてありがとうと言われました。 

35年目の『ちびまる子ちゃん』ですが、生活の一部であって、身体の一部であって、と言う感じです。 一番つらいなあと思った時は、一番忙しい時でした。 似たようなヒロインを朝から深夜まで毎日やっていて、芝居のしどころが無いような感じで、自分が見えなくなっていってしまうような感覚に陥てしまって、辛くて声優を辞めたいと思いました。        数年続いて、身体を壊してしまって、(腸捻転で2100ml内出血していた。)入院して5か月仕事を中断しました。 復帰できないかもしれないと思いました。  死んでいたかもしれないと思った時に、昔観た映画作品を舞台化してみたいと思いました。  脚本を書き始めてそれから3年かけて自分でプロデュースして、舞台をやりました。  以後、もやもがそれから一切感じないようになりました。 

若い人へのアドバイスですが、マイクの前だけれど御芝居しようというんですが、本当にそれが必要なのかと言う顔をするんです。  おそらく生き残っている人たちは、声優さんでもおそらくそういうところの感性がある人たちが残ってゆくと思います。 今それだけできればいいかと思いますが、その先に本物の楽しさがあるという事を気が付いてくれたらば、意識してくれたらいいなあと思います。 生成AIに負けないためには人間らしさ、自分が感じている言葉を発するという、それを感じる声優さんになって欲しい。 
















 


2024年3月2日土曜日

大塚善章(ジャズピアニスト)      ・88歳、米寿のステージ<2> (全2回)(初回:2022/12/3)

 大塚善章(ジャズピアニスト)      ・88歳、米寿のステージ<2> (全2回)(初回:2022/12/3)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/12/blog-post_3.htmlをご覧ください。

大杉隼平(写真家)            ・「父・大杉漣のふるさと徳島を撮り続けて」 

 大杉隼平(写真家)            ・「父・大杉漣のふるさと徳島を撮り続けて」

大杉隼平さんは6年前に亡くなった徳島県出身の俳優大杉漣さんの長男です。 父の故郷徳島の自然、生きる人、食など知られざる魅力を発掘し、その姿を写真に収め発信を続けています。 大杉隼平さんが徳島を撮り始めるきっかけと父大杉漣さんの影響についてのお話を伺います。

大杉隼平さんさんは東京生まれ、41歳。 ロンドンで写真を学び、帰国後から写真家として雑誌や広告の世界で活躍しています。 近年は2018年に亡くなった父、俳優大杉漣さんの出身地である徳島の自然、文化、そこに関わる人を精力的に撮影、写真を通して徳島の魅力を発信する活動にも力を入れています。 

大杉漣さんは北野たけし監督の映画をはじめ数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した俳優、名バイプレーヤーでした。 テレビのバラエティー番組にも出演して、幅広い世代の方に人気を博していた漣さんでした。

父であり親友のような人でした。  小さいころはおばあちゃんちへ遊びに行くといった感じでした。 大杉隼平さんが生まれる前に「愚の心配」と言うタイトルがついたメッセージを送っていました。 

「愚の心配」を朗読。                                       「真っ暗な夜があっても前だけは真っ黒になる。 これが親の心配であろうとお前は親を越えるだろう。 いつか悲しみも喜びも遠くから眺める時がきても、育つのだ。 一枚の壁として一本の瓦礫の木として。 隼平へ 」

何度も何度も読み返して、お守りのような感じがして、自分の心のなかにずーっとある手紙にはなっています。

今年父の7回忌になります。  父であり尊敬する人でもありました。  高校を出たあと写真の専門学校に行きました。 写真を見た時には記憶がよみがえるという事は凄くいいことだと思いました。 その辺が写真をやりたいというきっかけにはなりました。  伝えいたことは何だろうと考えるので、それと写真を撮る時に言葉を大事にしようと思っています。だれかの言葉がヒントになる事はあります。  

ロンドンに留学しました。 その後アメリカのデザイナーさんと一緒に仕事をした時に、水の音を表現してほしいとか、抽象的な表現ではあるんですが、それをやってゆくときに自分自身で考えることによって、出会えてよかったなと思える仕事の一つです。  徳島を取り始める時にNHKの「徳島をどう取りたいか。」というインタビューに対して、「知らないことを武器にしてやりたい。」と答えましたが、それは素直な気持ちだったと考えています。 知らないからこそ行った時の感動とか、感情が動くことはすごくあると思うので、この気持ちは大事にしたいと思っています。  

父が亡くなる数日前に父から「徳島を撮れよ。」、と言った言葉がずっとあって、それとマッチングしたところもありました。 やればやるほど、その理由も大きく変わってくるところもありますが、父の存在はずっと心に中にはあります。  祖父が校長先生をやっていたので教え子の方たちとお会いすることが結構多かったです。  

徳島の工芸に関する写真。  藍染、木工職人、鍛冶職人、阿波人形浄瑠璃を作る人形師、左官職人などの職人と職人が生み出す工芸品の写真です。 その地に根付いた文化、伝統工芸だったりあるので、一番最初に撮りたいと思ったのは工芸の部分です。  事業所だけでも200を越えていて、例えば藍染一つとってみてもやり方、出す色も微妙に違っていて、ひとくくりには出来ない。 藍染の工房に行った時に、人はしゃべらずして、言葉を発するというか、後姿から伝ってくる丁寧さ、プロの仕事だと思う部分には感動しました。

阿波人形浄瑠璃を作る人、甘利さん。   甘利さんの作ったものをぜひ見ていただきたいですね。 きめ細やかな作業を見てゆくと、手間をかけるという事は大事なことだと思います。  伝統工芸だけではなくて、徳島に来た時に後継者を作ることが大事だと思っているところがあります。  継がせても生活が出来ないという事があったり、継がせないという方も結構多いです。 

徳島の自然。 場所によって見える景色が全然違う。 海、山、川が自然としてきちんと残っていて、自然が豊か。  写真は一瞬の出会いかなと思っています。 (天気、風、光の入り方など)  いのししの罠猟師、矢形諭?さんを取材。 手で捕まえに行ったものを生きたまま山から降ろしてくる猟師なんです。  彼のやっていることは最初から最後まで動物に愛情をもってやっているんで、心が動きました。 罠一つとっても痛くないように調整してかける。  会ってみないと判らない人ってたくさんいます。  その皮を利用して、徳島の技術を使って何がうみ出せるかという事を考えています。 

徳島の発酵文化。 鳴門市の井上さんと出会って、丁寧な仕事をされていると思いました。 1年熟成のものと5年熟成したものでは全然違う事も教えてもらいました。 木樽は日本全国で必要としているところはかなりあると思います。  徳島が出来るという事は強みだと思います。 阿波晩茶、乳酸発酵させるのも全国的に少ないと思います。 急斜面で葉をとったり大変な作業ですが作り方を知りませんでした。 手間のかかったお茶です。 

中央卸売市場に一緒にいきましたが、魚種の種類が多いです。  写真を通じて何が出来るかを考え続けたいです。


















2024年2月29日木曜日

南 伸坊(イラストレーター)       ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!

 南 伸坊(イラストレーター)       ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!

月間漫画「ガロ」の編集長を経て、フリーのイラストレーター、エッセイストとして活躍しています。 前衛芸術家の赤瀬川原平さんや建築史家の藤森照信さんたちと設立した路上観察学会などで培った洞察力、情報収集力を元に旺盛な好奇心で活動を続けています。 おかしみのある文章でも多くのファンのいる伸防さん、絵でも文章でもわらいがないものは書きたくない、読んでいる間だけでも楽しい気分になって貰えれば、世の中に訴えたくと言うのは無いですねと話す伸坊さんです。 美術から笑いや、老いについてまで幅広く発信し、人を楽しませたいという伸坊さんにお話を伺います。 

出来るだけ笑いのあるものを書きたいと思っています。  子供のころからみんなが笑ってくれるのが嬉しかったです。 ラジオからテレビに替わってゆく時代でした。 相撲は物凄く好きになって行きました。  ものをしっかり見るという事は今の私を形作っていると思います。  細かいものが見えてくると楽しいです。 看板とか絵を描いてるというのもずっと見ていました。  人がやっていることを再現したりするのが面白かったです。 

路上観察学会は路上にあるくだらないものに目を付ける。 それを独自の解釈をすると面白いんです。  旅館についている階段を上ってゆくがどこにも行けない。 変なものであるという事は判って、無用になっているものなんだけど、きちんと残っているというものがまだいろいろあるという事に気が付きました。  その階段は四谷に有ったので四谷階段と名付けました。 病院の通用門にアーチ型のひっこんだものがあり、そこが全部コンクリートで覆われていたんです。 後にトマソンというタイトルがついた。

赤瀬川原平さんは美学校時代の先生でもあります。 千円札事件と言うのがあって、本物の束の様に描いて、その事件の裁判でお世話になりました。  講義が凄く面白かった。 宮武 外骨という編集者の人の講義をしてくれました。  路上観察学会の人はみんな似ています。 みんな子供ですね。 発表するのにも如何に面白くやるかという事に気を使います。面白ければいいというのが基本です。 何が面白いんだろうという事を考えるようになりました。 わかっていることを判りなおす時に、笑いと言うものが起こるんじゃないかと思います。  似顔絵をみて笑うんです。 その人なりの或る理解をしているわけです。 自分の持っている情報よりも、出力できる情報が物凄く少ない。 見て判っていることが自分で判って、それが嬉しんじゃないかと思います。  その時に笑いが出てくる。 つまらないという事は、全くわからないか、判り切っていることは面白くない。 

顔で似せると似顔絵よりももっと喜ぶという事を知りました。(小林旭、松田聖子、アラーキー、スティーブ・ジョブズ、由紀さおりなど) 再現するためにその人の顔を良く観ます。 輪郭は物凄く大事ですが。 最近はおじいさんになってきたので段々パーツが減ってきました。  一般の人は必要なものを見ていますが、絵描きさんは不必要なものを物凄く良く観る。  ピカソの絵の模写をすると、今まで気が付かなかったようなことに気が付いてくるんです。   子供は人相書きをすると、凄く似ているものを描くそうです。 モンタージュが以前はありましたが、何故辞めたかと言うと似顔絵の方が似てるからだそうです。 大人は特徴を頭で考えるんです。 子供にいきなり描かせると、その時の印象が絵に出るんでしょうね。  

文章も笑ってもらえると思って書きます。 老後に必要なものは、笑顔と笑顔を共有できる人達です。 口が「へ」の字になって来るのは重力の影響もあると思います。 高校受験、大学受験でも失敗して、段々頑張らないでいい方向に流れて行きました。 お薦めの一点はアルベール・マルケ(日本人が好きな絵だとは思います。)の絵です。  マルケの絵は水のある景色が多いです。 水の質感がいいです。