河合俊雄(心理学者) ・〔わが心の人〕
河合隼雄さんは1928年(昭和3年)兵庫県篠山市で生まれました。 河合隼雄さんは日本の心理療法の第一人者でした。 2007年79歳で亡くなるまで心理療法家としての体験を大切にしながら日本人の心や日本の文化を独自の視点で分析し続けました。 2002年からは文化庁長官も務めています。 お話は臨床心理学者で長男の河合俊雄さんです。
父親の研究室の出身なので、父親であると同時に師でもあり、離すのは難しいところです。 2007年79歳で亡くなり17回忌 という事で記念行事とか、河合隼雄を知ってもらう本も出たりしています。 文化庁長官をしていて、当時高松塚古墳の件で過労状態でしたが、セラピーも大事にしていていろんな人と会っていてまして、8月16日の夜に就寝して、その後目を覚まさず脳梗塞で朝緊急入院しました。 家族から見ると健康管理はいい加減なところがあったように見受けました。
34歳の時にユング研究所に留学、私は4歳でした。(2回目の留学) 数学の先生をしていたが、もっと子供の心を知らなければいけないと勉強しているうちに、心理学を専門にするようになりました。 1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) へ留学し、クロッパーやJ・M・シュピーゲルマンの指導を受けました。 私が2歳の時にアメリカから戻って来ました。 スイスでは幼稚園が義務教育でした。 大きな環境の変化でした。 母に言わせると子供とよく遊び、ダジャレの名人で5分に一度は笑わせてくれる面白い人だった。 負けず嫌いで、僕と将棋をやっても負けそうになると逃げて行ってしまいました。 大きくなると梅原猛先生の面白い出来事なども、脚色を交えて聞かせてくれました。
スイスから戻って天理大学教授、京都大学教授、注目されてNHKの番組にも沢山出演しました。 ユング心理学、心の悩みの相談とか非常に実践的な心理学です。 心には無意識があるというのを前提にした心理学です。 セラピーの場合でも夢であるとか、絵を描いてもらうとか、箱庭療法と言って、砂箱の中に自由に部屋にあるおもちゃを入れていく手法です。引っ込み思案でおとなしいと思っている人も、実は心の中には積極的なものを持っている。 引っ込み思案の人がパーティーで挨拶しなければいけない時は凄く不安になる。 実は積極的なものがあるんだという事を生かしてゆくことも大事です。
箱庭療法では、砂の上にいろんな木を受けてみたり、建物を置いてみたりして一つの風景を作ってゆく。 内面にあるものがふっと無意識のうちに出てくる。 学校に行くと喋れない子が箱庭を作ると隅の方だけしか使わない。 セラピーに来ていると段々領域が広がってゆく。 箱庭療法は元々はスイスで出来たもので、河合俊雄はこれは日本人に合うと直感して、スイスから帰ってきた1965年に、箱庭療法を導入して、華道、茶道、日本庭園とか伝統的なものが日本人に合うのではないかという事で、進めて行きました。 日本人のセラピストの作る箱庭療法は木が多いんです。
どんな夢を見たのかという事を分析することによって、無意識なものが出てくる。 夢はコントロールが出来ない。 思春期に典型的に出てくるのが追いかけられる夢、思春期には自分が出来てくるので、自分は脅かされているとか、他に他人に見られているとか、という意識が出てくるから、追いかけられる夢が出てくる。 心理療法は自分で体験してみないといけない。 自分では全く思ってもいなかった自分に出会うという事にもなる。(怖い部分もある。) クライエント(カウンセリングなど心理療法を受ける人)さんはすでに苦しんでいる。 訓練のために夢を話してゆくとしんどくなって落ち込むことが多い。
私も受けましたが、吃驚するような出会いもありました。 河合隼雄の夢のことでは、ハンガリーでコインを拾った夢(30代の初期の夢)で、フン族とハンガリーは関係していて、東洋がちょっと入っている。 東洋と西洋が出会うというか、それを自分はやらないといけない、と言う意味を知らせているのではないかなと、分析家との話し合いのなかでなったようです。 そしてそういう事をしてゆくことになります。
ユングは東洋に関心があった。 自我と自己と言うものがあり、日常は自我を中心として動いているが、心の中心は自己というもので無意識の中にある。 仏教の真我と自己は凄く近いんです。 しかし日本でユング心理学をやる時には、いろいろと変えていかなければいけない。 「昔話と日本人の心」。 河合隼雄は小さいころは西洋物語が好きで、西洋物語は最後は結婚で終わるんですね。 日本の昔話はハッピーエンドで終わらないものが非常に多い。 日本の昔話が大事なモデルを提供してくれると思って、日本の昔話の研究をして書いたのが、「昔話と日本人の心」です。 河合隼雄が言ったのは美的解決、物語のなかで女性が去ってゆくが、結婚が失敗したのではなくて、去ってゆくもののあわれが美しい。
河合隼雄は話し上手でした。 逆に言うと本当のことをなかなか話さなかった。 日本神話については彼のライフワークで、ユング研究書の資格論文で40歳前で書いています。 手を加えてゆき最後に「神話と日本人の心」の本が出たのは倒れる4年前ぐらいでした。 亡くなってから校正、編集、解説書いたりする仕事が沢山来ました。 読んでみて吃驚しました。 これまで適当に読んでいた気がしました。 彼の知る由もない新しい世の動きとか、新しい心の問題とか、見事に当てはまるというみたいなことがいろいろあって、私には3回目の父との出会いでした。
河合隼雄財団を作ったり、河合隼雄物語賞、河合隼雄学芸賞、と言った活動もしています。 33回忌までは続けたいと思っています。