塙宣之、土屋伸之 (ナイツ) ・〔師匠を語る〕 生涯現役 内海桂子のプロの教え
ナイツのお二人が師と仰ぐのは漫才協会の会長を務めた生涯現役漫才師の内海桂子さんです。内海桂子さんが亡くなったのは2020年の8月で3年半が過ぎようとしています。
塙:私にとっては師匠がいるのといないのでは全然違います。 全部教わったような気がします。
土屋:芸人を20年以上やっていますが、歳を重ねる程桂子師匠の凄さを実感します。
内海桂子さん(本名安藤良子さん)は1922年(大正11年)千葉県銚子市で生まれます。 幼少期を東京浅草南千住で過ごし、三味線、踊りの稽古を積んできた内海桂子さんは1938年16歳で男性と漫才コンビを組みデビューします。 大卒の初任給が20円の時代、月々のお手当は35円でした。 生家の家庭をずっと助けて来たそうです。 太平洋戦争が始まり、戦況が悪化する中でも万歳を続け、慰問の為満洲にもわたり、東京大空襲を生き延びた桂子さんが14歳年下の好江さんと内海桂子・好江コンビを結成したのは1950年(昭和25年)のことでした。 まだ中学生だった好江さんに初めは二の足足を踏んだものの、本気でやるという好江さんの言葉に奮い立ち、再スタートを切ったと言います。 三味線と歌と心地よいテンポの江戸っ子万歳が頭角をあらわし、結成の8年後(昭和33年)にはNHK万歳コンクールで優勝、更に昭和57年漫才師として初めての芸術選奨文部大臣賞を受賞、平成5年度の放送文化賞を受賞するなど、第一線で活躍しました。 1997年(平成9年)好江さんが亡くなり、48年間の活動にピリオドを打ちましたが、その後も内海桂子さんは三味線を手に都都逸などを交えた音曲と漫談を披露、一人舞台に立ち続けます。 1998年(平成10年)には漫才協会の5代目に就任、若手の育成にも力を注ぎ、ナイツの師匠としても注目されました。 2020年8月内海桂子さんは多臓器不全の為、97歳で亡くなりますが、生涯現役漫才師を貫きました。
塙:大学でお笑いのサークルに我々は入っていたので、養成所に入るのとは違って、マセキ芸能社に入って、そこの社長が浅草で芸を磨きなさいと言う方針でした。 漫才協会に入るためには誰かの弟子にならないといけないというシステムだったので、内海桂子さんの弟子になりなさいと言う事務所の方針で弟子になりました。
土屋:その時には80歳で祖母と同じ年代でした。 孫を扱うような感じでした。
塙:すごく緊張して挨拶したのを覚えています。お互いにピンとこないような状態でした。
土屋:ご主人が居たので付き人としての付き人としての苦労と言ったことはなかったです。個人個人の名前は言われなかったが「ナイツ」と言う言われ方はしました。
塙:内海桂子師匠が「とり」で僕らが「とり」前をやるんですが、終わるまえに師匠が出てきて打ち合わせとか全然していないで、3人で5分ぐらい会話をしてやるという風にはなっていました。 亡くなってしまいましたが、もう一回やりたいという気持ちがあります。 言葉使いとかは凄く言います。 「やばい」という言葉を使う事によく怒られました。 万歳ではふざけてはいるが、言葉使いはちゃんとしなければいけないという事で、それは凄く残っています。
ナイツが万歳新人大賞を受賞したのが2003年、弟子入り2年後。 2008年にはお笑いホープ大賞、NHK新人演芸大賞、M1グランプリ決勝進出。 平成25年度文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞、平成28年度第67回芸術選奨文部科学大臣 新人賞、第33回浅草芸能大賞 奨励賞。
塙:師匠が凄いところは、育てることも凄いんですが、自分が売れたいという気持ちのある人で、ライバル意識をしていました。
土屋:テレビなどで師匠の話をすると、喜んでくれたりしました。
塙:「言葉で絵を描きなさい。」と言う事は言っていました。 最初はわからなかったが、良い万歳と言うのはネタをやっている時に、その絵がお客様に浮かんでいるというのがいい万歳なのかなあとか思います。
土屋:お客さんの中に浮かぶような言葉を選ぶ と言うのが、師匠が言いたかったことなのかなあと思います。
塙:怒られること自体も嬉しかった。 それが褒め言葉だったのかもしれない。
土屋:いろんなことが出来る万歳師を結構褒めていました。(そういった時代だった。) 僕らみたいにただ突っ立っている万歳、今でこそ正統派といわれますが、それはゲイじゃないよと言う考えはありました。 南京玉すだれを教えてもらってやった時にはすごく褒められました。 「万歳は宇宙だ。」といっていて、漫才も無限の広がりがあるものなのか、でもよくわからないまま終わって仕舞いました。
塙:訃報を聞いた時にはコロナ禍でしたので、どうしようもない感じでした。 最後を立ち会えませんでしたし、いまだに実感がないという感じです。 97歳でしたが、師匠からするともっと長生きしたかったと思います。 自分の人生に一番パワーを使ってきたことが長生きの秘訣だったのかもしれないです。
まだ勉強の途中ですが、歳をとって来て段々凄いと言う事が判ってきました。
土屋:師匠は自信がみなぎっていました。 お客さんを今日一番笑わせるのは自分だという、そういう自信たいなものがありました。 精神的に強い師匠だったと思います。
師匠への手紙
「 「言葉で絵を描きなさい。 万歳は宇宙だ。」という弟子入りしていたころは全く判りませんでしたが、最近ちょっとずつ判って来た気がします。 その中でも「感性がぶつかれば万歳になるんだから、感性を磨きなさい。」と言う言葉です。 一生万歳師として生きてゆくために必要なことだと痛感しています。 感性、人間性を磨くために何をすべきかを心の中で師匠と対話しながら、これからも進んでいきたいと思います。 師匠の座右の銘「人生は七転び八起き」 失敗しても全て芸の肥やしとしてこれからも舞台に立ち続けようと思います。」