2024年1月4日木曜日

重延 浩(演出家(番組制作会社・会長))・樺太引き上げ体験の記憶と平和に

重延 浩(演出家(番組制作会社・会長))・樺太引き上げ体験の記憶と平和に 

重延さんは昭和46年(1946年)12月5歳の時に、樺太(現在のサハリン)から引き揚げてきました。 樺太の豊原(現在のユジノサハリンスク)に住んでいた重延さんは、ソ連軍の突然の侵攻、戦車から兵士が身を乗り出して威嚇の為か、銃を乱射していたことや、引き上げまでの1年余りの間ソ連軍の管理下でびくびくしながらの生活をしたことなどが子供心の記憶の中に深く残っているとしています。 樺太での戦争の記憶、そして平和への思いをお話しいただきました。

私の頭の中にはかなり鮮明に残っています。 見たもの出会ったものが非常に強い印象を与えるものばかりだったんだと思います。 豊原と言う街は樺太の中心にあって、建物の感じが不思議に思いました。(その前はロシアの領地だった。)  街の作りは札幌の十字路を真似た区画で、合併で残っているのに私たちが住み着いたという事でした。 或る時にはロシア、或る時には日本のものであったという歴史を考えさせるような街の配置になっています。 樺太は大陸に繋がった半島だと思われていたが、間宮林蔵が2回回ってどことも繋がっていないという事を江戸に帰ってから報告をした。 海峡があるという事で、ヨーロッパでアジアに新しい海峡を回れば、どんなに近くなるかと大喜びされた、という間宮林蔵の発見でした。 豊原は緑の多い街でした。 冬はスキーを履いて歩いてゆくという感じでした。 樺太犬の犬ぞりも良く観かけました。

昭和20年8月15日、日本が降伏という事でせんそうは終結となったはずだった。 日ソ不可侵条約でソ連とは戦う事がないはずだった。  8月20日に私たちは日本に帰ろうと思いました。 南樺太に前衛軍が押し寄せてきて、暴行、あらゆるものを持ってゆく、婦人も大変な目にあうという世界を見て吃驚しました。  陸海空軍が一挙に押し寄せてきました。 殺されたり残酷な戦争の姿を見せて来た。  北の方に住んでいた人たちは豊原に向かって逃げてきました。  父親は病院をやっていたので出てゆくわけにはいかなかった。  大泊港に向かって母親、姉が3人、兄が1一人とでいき、小笠原丸と言う大きな船が待っていました。 樺太は約40万人でしたが、5万人が殺到していました。 母親が「豊原に帰る。」と言って列から離れ始めました。 父親を残して帰るのが忍びなかったものと思います。

8月22日に9機の飛行機が来て空襲に遭いました。 爆弾を落とされて血まみれになってゆく様子を見ました。  23日には戦車が来ました。 近所の方々も病院の屋根裏に避難してきました。 初めて戦車を見て、乗ってる兵隊が空中に乱射して、銃弾がうちのトタン屋根に落ちてカラカラと滑り落ちてゆく音が忘れられません。 女性は酷い目にあうという事で顔に泥を塗って坊主頭にしていました。  ソ連の兵隊が2人、うちの玄関のところに2人の写真(一人はスターリン)を貼っている様子も見ました。 病院はロシアの形式の建物でソ連軍にとっても病院は必要なので、接収されずに済みました。  若い兵隊を紹介されて、毎日来るという事で、監視役と言う事でした。 

その若いソ連兵との付き合いが始まるようになりました。 日本語の事典見たいななっものを持っていました。  イチ、ニー、サンと言うような言葉から始まりました。 段々兵隊らしくないと思うようになりました。  ロシア語を教えてくれるようにもなりました。 その中には30年後に判った言葉がありました。 (「こっちに来て座りなさい。」と言う意味だった。)  言葉は人間の心と心を通じ合わせたんですね。 

5匹のウサギを或る患者さんからもらって大事に育てていましたが、いなくなっていました。  ロシア語の出来る中野医師と一緒にソ連軍の司令部に行きました。 偉そうな人に向き合う事になり、医師が「さあ 言え。」と言うんで、その人に向かって「ウサギを返せ。」と日本語で言いました。  偉い司令官が笑いだして、「大丈夫。大丈夫。」という事でした。  ウサギは食べられてしまっていて、「でもお前はそうい う事は良くないことだと言ったんだ。」と中野先生は言ってくれました。  翌日の新聞に新しい公布が発表されて、「日本の家庭に入り込んで、物を取ったりしては絶対にいけない。」と言う軍隊の告示が出ました。  偉い人に対しても言うべきことは言っていいんだと、ふっと子供心にも出てきました。 

乗れなかった小笠原丸は22日に留萌沖で、潜水艦に攻撃されて沈没して多くの方(約1700人)亡くなった。 乗っていたら海の中で死んでいたと思います。 チェーホフの本で「サハリン島」と言う本がありますが、そこには子供たちが言う事は一番素直で、本当のことを言っている、と書かれています。 後年それを読んで、やっぱりチェーホフと言う作家は凄いと思いました。  あの体験は私にとってうれしい体験でした。 何十年ぶりにサハリンに行く機会がありましたが、父親が書いた古い地図を手掛かりに行ってみたら、住んでいたところは何にもない空き地になっていました。 土を持って帰ろうとしたらロシア兵5人に怖い顔をして囲まれましたが、身振り手振りで伝えたら理解してくれて、暖かく対応してくれました。  ウクライナ、ガザの映像を見ていると樺太の時とそっくりです。 悲しい人間の行為であるという事を、両方の国がわからなければいけない。 人と人との心が変れば戦争もなくなってゆくんじゃないかと思います。