2024年1月17日水曜日

荻原次晴(スポーツキャスター )     ・〔スポーツ明日への伝言〕 双子に生まれて良かった!

 荻原次晴(スポーツキャスター )・〔スポーツ明日への伝言〕  双子に生まれて良かった!

次晴さんは総合優勝に3回輝いた双子の兄健司さんと共にワールドカップを転戦、1995年には二つの大会で1位、2位を兄弟で占めるワンツーフィニッシュを遂げ、更に世界選手権では団体の金メダルを一緒に獲得しています。 1998年には念願の長野オリンピックに出場して個人6位に入賞を果たしました。 引退後はスポーツキャスターとして活躍する一方、登山愛好家としての本百名山登頂にも挑戦中です。 

僕は登山が大好きで2011年の夏から次晴登山部と言う部を立ち上げて、日本中の山好きと日本百名山を登ろうというチャレンジをしてきて、74の百名山に登ってきました。 ゴルフ、レーシングカー(ラジコン)、サーフィンなどもやっています。  私たち双子兄弟の上には姉が3人いて5人兄弟です。  登山は両親が大の登山好きで、子供のころから山に行っていました。 

1969年(昭和44年)群馬県草津の生まれ。 ノルディック複合のワールドカップ優勝が19回、総合優勝が3回、オリンピックでも団体で二つの金メダルを取ってキングオブスキーと言われた健司さんが兄です。 私は健司のことを「健」、健司は私のことを「つん」と言っていました。 家族とか近所でもそうでした。 よくわからないので「健つんちゃん」とも呼ばれたりしました。 スキーは3歳から始めました。  5歳からはしっかりしたスキー道具を身に付けて二人で滑っていました。  ジャンプは小学5年生の時です。 姉の影響で小学1年から5年までは器械体操をやっていました。 5年生の時にジャンプをやっている友だちに誘われました。  兄は慎重派ですぐには始めませんでした。 

中学1年では岐阜県で全国中学生スキー大会があり、私が群馬県の代表になりました。 兄は炬燵で泣いていたそうで、その後兄は練習を一生懸命やって急に強くなりました。 私は楽しんでやっていたらあれよあれよと強くなて代表に選ばれて、代表に選ばれた喜びはそんなにありませんでした。 中学3年で全国大会で健司が1位、私が2位でした。 高校で2人はジュニアのナショナルチームのメンバーになりました。 高校2年の時にイタリアで国際大会が行われましたが、私はほとんどビリでした。 健司は15位ぐらいに入り俄然やる気になりました。 大学4年の時のアルベール(オリンピック1992年)迄突き進むという感じでした。 健司が複合で金メダルを取ります。 私は家でテレビを見ていて吃驚しました。 V字ジャンプが出てて、健司は新しいV字ジャンプにはまっていました。   ジャンプは二人とも下手でしたが、どうせなら新しいことをやってみようという事でした。   ジャンプの得意な人は取り入れないため引退に追い込められました。

リレハンメルでも連続の金メダルでした。 当時はジャンプさえよければ日本の複合は何とかなるという感じでした。  日本と2位のチームとの差が5分と言う時もありました。  アルベールの直後山形県の蔵王で国体が開かれ、金メダルチームが来るという事で凄く人が集まりました。  或る女性が私のところに来て「健司さん 大フアンです、沢山のケーキを持て来たので食べて下さい。」と持ってきました。 「違う。」と言ったんですが、仕方なく受け取りました。 けっこう重くて変な体勢で受け取って、その瞬間に腰に電気が走って、それから何十年と腰の違和感と付き合っています。  大会にも出られず群馬に戻って来ました。 

長野オリンピックでは個人6位入賞。 兄がメディアで有名になりますが、顔が似ているのでどこに行っても間違われるんです。  讃えられる兄と、がっかりさせられる弟と言う風に強く感じるようになりました。  自暴自棄になってしまった時期もありました。 それを打破するためには何かチャレンジしなければ駄目だと思いました。 私も頑張ればオリンピックに行けるかもしれないと思いました。 そうすれば間違われることなくなるだろうと思いました。  自分で考えて自分流のトレーニングをするようになりました。 成績もよくなっていきました。 1994年、1995年のワールドカップには二人で出場。

チェコの大会では健司が前半1位、私は5位ぐらいでした。 クロスカントリーになったら前の外国選手をどんどん抜いてゆくことが出来ました。 健司に追いついてしまって、優勝だと思っていました。 後ろから強豪のノルウェーの選手が迫って来て、二人が飲み込まれたらもったいないと思って、自分が犠牲になって健司を引っ張って、最後に余力があったら私が1位になろうと思いました。  最後の最後私も力が尽きてしまって、健司がラストスパートを仕掛けて健司が優勝、私が2位となりました。 健司は連勝連勝できていたので譲ってくれるのではないかとの思いもありましたが、そうはいきませんでした。 健司は言っていました、「世界はそんな甘くねえぞ。」と。 

1994年カナダのサンダーベイで行われて、この時には団体で世界チャンピオンになる。 双子揃っての世界チャンピオンになる。 これで健司もいるが、次晴もいるという事が世間に知ってもらうことができました。  個人戦ではみんなジャンプの成績が良かったので、誰かメダルは取れると思っていたが、クロスカントリーでは板が全然走ってくれず、誰もメダルを取れませんでした。 板を外してみたら、黒いベタベタした油がついていました。 後で判ったことですが、近くのパルプ工場の煙が雪に積もって板に付着したのではないかという事でした。 

1998年の長野オリンピックでは個人6位入賞。 オリンピックが近づくに従いコンディションを崩してしまって、調製が難しかったです。  オリンピックに出るためにはポイントが必要でマイナーの大会に一人で出たりしてポイントを稼ぎました。 本番の前半では3位になりました。 結果は6位でした。  長野オリンピック終了後6月に引退しました。 健司が金メダリストになって、間違われたりして、双子って厭だなとずっと思っていました。  振り返ってみると、厭なことがあったかもしれないが、さぼり癖のある私もオリンピックにたどり着けた、結局は双子に生まれて良かったなあと思います。  マラソンで競う宗兄弟を見て他人とは思えない、親しみを持っていました。 孤独になりがちなスポーツで身近な兄弟がいることでもうひと頑張り出来る、そういったものがあるのかもしれません。