三ツ矢雄二(声優) ・【時代を創った声】
63歳、子役としてデビューして今年で50年になります。
声優、舞台、歌、演出、音響監督など様々な場で活躍されている三ツ矢さんにうかがいました。
「タッチ」の上杉達也、ロボットアニメ「超電磁ロボ コン・バトラーV」(デビュー作)、他に舞台、歌、演出、音響監督などやっています。
タッチの放送の始まる前にオーディションがありましたが、作り手側に意欲が違うなと言うことは感じました。
局が命運をかけているアニメとは思っていなかった。
あだち 充さん原作、1985年から87年までTV放送。
達也も和也もやりました。
和也は途中で死んでしまう悲しい役ですが、達也の方が多いのでこちらの方がいいかなと思いましたが。
その仕事も頑張ってやっていくわけですが、「「タッチ」の場合は作品が独り立ちして歩きだしてしまっていたので、代表作が出来たのかなと言う気持ちが強かったです。
野球のことは全然知りませんでした。
子役をやっていたので、近所の子と遊んだ記憶もないし、学校の体育の授業も出なかったし、色んなスポーツなどもルールとかを知らずに育ってしまいました。
いまは楽しんでスポーツを見るようにしています。
小学校の時に合唱部に入っていて10歳の時に先生からちびっこ歌番組に出て見たらと言われて、出てみたら優勝して、グランドチャンピオンにもなりました。
先生からオペラ向きだねと言われて、お芝居も勉強しなくてはいけないと思って児童劇団にも入りました。
歌手になると言う気持ちはさらさらなかった。
NHKの少年ドラマのオーディションに出たら主役に受かって1年間そのドラマをやりました。(「海からきた平太」)
その後子役として色々なところに行っていました。
児童劇団で1年間やった基礎が凄く役に立っています。(発声練習、早口言葉、など)
「海からきた平太」がTVドラマのデビュー作となりました。(50年前)
その後NHKの「中学生日記」の前身の「中学生群像」を4年間やらせてもらいました。(中学、高校)
それをやりながら東京とか大阪、名古屋に行っていたので、高校もほとんど授業を出ていないような状況でしたが友達に教えてもらったり先生に援助をしていただきようやく卒業できました。
高校を卒業して専門学校の映像クリエーター科でシナリオを書く勉強もしたが、書くことが出来ないことに気づいて、大学で勉強しようと思いました。
大学(夜間に通う)で勉強するとともに、蜷川さんのお芝居に出させてもらいました。
芝居は物凄い数を観ました。
人形劇の声をやらないかとの声がかかりました。
そこに行ったら周り全部声優の人たちだった。
セリフ術の勉強もしていきました。
番組の打ち上げがあり、その二次会で、「波平」(永井 一郎)さんからオーディションがあるからと言われて行ったのが「超電磁ロボ コン・バトラーV」でした。
主役に選ばれてそれが声優人生のスタートとなりました。
声の仕事がどんどん増えて行って気が付いたら声優になっていました。
27歳の時にミュージカルをやりたいと思って、10本持っていたレギュラーを抜けさせてもらって、ニューヨークに3か月留学して1カ月に40本ぐらい見ていました。
戻って来て、30歳の時に劇団を作りました。(主にミュージカルをやる劇団)
ニューヨークに行ったときは最初は衝撃でした。(とても自分にはできないと思った)
演劇は場所さえあれば出来るんだと言うことを学びました。
劇団は5,6年でつぶれました。(ノウハウを知らなかった。)
若い子を15,6人に演劇の訓練をするようになり、又2つ目の劇団をたちあげました。
35歳ぐらいで演劇雑誌を作り始め、物を書くと言うことでは貴重な体験でした。
私は人に生かされてきたと思います、色んな人との出会いで道がひらかれたような気がします。
声優、劇団、音響監督をやっていて、その当時が精神的にきつかったです。
なんか壊れて行くような気がして、50代の時に声優以外の仕事を整理しました。
今は元気に色んな事をやっていて気分は楽ですね。
声優は自分が一番積みかさねてきた仕事なのでそれは自分でも認めようと思っています。
人間以外の役をやるようになった今の方が声優って面白いなと思っています。
人生長くて、50年前の自分と今を考えると求められているものが違う。
良い環境でいい舞台に出て色々追求してゆくことは自分のレッスンになるので、それを自分の声優としての活動に結び付けて行くことがいいのではないかと思います。