2018年1月11日木曜日

喜谷昌代( キッズファム財団 理事長)   ・喜びも苦しみも共に(1)

喜谷昌代(一般財団法人 キッズファム財団 理事長)・喜びも苦しみも共に(1)
81歳、昭和11年東京生まれ、1964年の東京パラリンピックで語学奉仕団のボランティア活動を体験しました。
その後も世界各国で熱心にボランティア活動を続けた喜谷さんは、イギリスで世界初の子供のホスピスを訪ねます。
そこで重い病気でも子供らしく過ごす子供の姿に感動し日本にも同じような場を作りたいと活動を始めました。
そして去年の4月国内で初の公共の医療機関が運営する医療型短期入所施設「もみじの家」を東京に開設しました。

イギリスから一時帰国しています。
大したことをしていないのに時間ばかり経ってしまいました。
1年半経った紅葉の家に行きました。
東京の品川と五反田の中間あたりの処で生まれました。
幼稚園から高校まで聖心女子学院に通いました。
途中で戦争もありました。
大学卒業後客室乗務員になりました。
父が終戦の年の 1月に仕事の関係でもう一度行きたいと言うことで旅立ちましたが、フィリピンの近くに来たときに連合軍の飛行機に追いかけられて撃ち落とされて父は亡くなりました。(8歳の時)
そんなことが有ったので是非空を飛びたいと言う思いがありました。
色々なところに行って4年半ぐらい色々な体験が出来ました。

結婚を期にパリに住むようになりました。
2年半ほどパリにいてそこで長女が生まれました。
100日経たないうちに転勤命令が出て東京に戻ることになり、その時が東京オリンピックパラリンピックがあり、TVで見たり出来ました。
2年先輩の皇后の美智子さまがおりまして、フランスから帰ったら連絡があり、赤十字に入って何かお仕事をさせていただいたらいいのではないかと、お勧めを電話で頂きました。
日本赤十字の青少年課の課長をしていた橋本祐子さんを紹介させもらいました。
欧米に比べ、日本のパラリンピックの皆さんは施設から真っ直ぐバスで来て、自信がないと言うか暗いような感じの方たちばかりでした。
橋本先生はしっかりやりなさいと言うことでみんなを励ましていました。
当時はパラリンピックという言葉がその時できた様でとても緊張していました。
手伝いするのもなかなか思うようにいかないこともありました。
1964年のパラリンピックでは帰って来たばっかりなので橋本先生と一緒に本社内の手伝いが多かったです。(翻訳作業等)
食事なども今よりも粗末で義足を付けている方も、欧米に比べてあまり十分ではなかったと思うのでとても苦労されたと思います。

ボランティア活動は日本、フランス、ベトナム、タイ、香港、ドイツ、イギリスの7カ国で行ってきました。
ベトナムではベトナム戦争の負傷兵の手当などもしました。
その時は上が3歳、下が生後6カ月でしたので、暑いところなので難しい思いもしました。
飛行場ではロケット砲が撃ち込まれて飛行機が飛べなくなったり、救急袋を持って家の階段の下に入って夜が明けるまで過ごしたりと言うような経験もしました。
子供達は周りの人に見てもらったり、ロケット砲の為に夫が早く帰った時などは面倒を見てもらったりしました。
暑いところなので色んな病気も多く、電気を始終切られてしまうのでエアコン、冷蔵庫、洗濯機などなどがストップしてしまいます。
ゴミを1カ月ぐらい取りに来てくれないので、ハエ、蚊など虫が一杯で子供達には影響がありました。
水が汚くて1分間ガーゼ、脱脂綿で蛇口を押さえておくと砂や砂利やいろんなものが混ざって来るので気を配らなくてはいけませんでした。
兵隊は竹で編んだなべなど必要なものを入れて、生きたニワトリを持って、料理しながら戦場に向かうような光景がありました。

一番きつかったのはドイツのベルリンに行った時だと思います。
1978年から1985年の7年間でした。
ポーランドが経済的、政治的にも困難な時期だったので、ポーランドの普通の家族たちを少しでも楽にしてあげたいという機運が高まっていて、ドイツでは募金をしていて、そのお金で薬、乳児用品、老人用品などを買ってポーランドの田舎に配って歩くと言うことをしていて、日本でもポーランドの為に募金をしていることをうかがったので日赤にお願いして、そのお金をベルリンに送っていただいて、日本人会の人と一緒に必要品を購入して10台ぐらいのトラックに積み込んで配ることをしました。
ポーランドは共産国だったのでチェックが厳しかったです。
冬は零下30℃ぐらいなるので、東ベルリンとの国境では細かくチェックされ、トラックのなかで震えていて、ポーランドの国境のところでも同じようにチェックされました。
10日間小さな村を回って薬、食糧などを届けて、そういったことを10回ほどやって思い出に残っています。

ドイツの赤十字ではドイツ語が出来るかといきなり聞かれて、出来ませんと言ったら、直ぐにドイツ語を習いなさいと言われて、2,3の免許を頂いてそれから活動が出来るようになりました。
ベルリンは共産圏にかこまれていて、学校に入って勉強すると兵役が免除されると言うことでほうぼうの国から若い人が来ました。
周りは若い人たちで試験は辛い思いをしました。(当時40歳になる頃)
男子の犯罪人がいる刑務所に行って服役者の相手をするとかも許されてユニークな活動だったと思います。
服役者とも親しくなって心、生活、環境、どうしてそうなったのかなど色々なことを学べました。
欧州にはキリスト教文化が残っていて、服役者にもそういったことが残っていて、ミサをすると言うことがあって、子供たちが入れてもらって聖歌を歌ってミサをすると、服役者の眼から涙が落ちてくることがよくありました。
刑が終わるころになると6時間ずつシャバに出して貰えるので、そういうときの責任も私どもが持って面倒を見ると言うこともありました。
その中にステーキが食べたいと言う人がいてレストランに連れて行って、ステーキをあっという間に平らげてまだ欲しそうで私の分までもぺろっと食べてしまいました。

夫の仕事の関係で49歳でイギリスに引っ越しました。
世界初の子供のホスピスを見学することになりました。
20年近く「もみじ」というチャリティーがありますが、障害のある日本の青少年とイギリスの青少年とを交流するプロジェクトでしたが、日本赤十字のお金はもっと戦争に関わるような場面で使わなければならないので、そういう政治活動には使わぬようにと言うことがあり、辞めるのは残念と思って独立してチャリティーにしたいと思って、認可して貰って独立して活動が出来るようになりました。
オックスフォード大学の関係で世界初の子供のホスピスがあると言うことで広報担当の方から話をして貰って、見学したいと言うことになりそれが子供のホスピスとの出会いとなりました。(10年以上前)
日本とは雰囲気が違って自由というか、看護師さんとかが理学療法士とか、シスターとかがいて家庭的で温かくて、病院とか施設と言う感覚が全然なくて、こういうところを日本に持っていけたら、死を前にした様な子どもさんでも楽しく最期を過ごしてお送りすることができるのではないかと思ってなんとか日本に作りたいと心の準備をし始めました。