2018年1月17日水曜日

早坂暁(脚本家)            ・母を語る(H16/10/19 OA)

早坂暁(脚本家)       ・母を語る(H16/10/19 OA)
昨年12月に亡くなられた早坂暁さん。
昭和4年愛媛県生まれ、旧制松山中学を経て、海軍兵学校に在学中に終戦を迎えました。
日本大学芸術学部演劇科を卒業後、新聞社の編集長を経てTVドラマの脚本や演出を手がけるようになります。
代表作には「戦艦大和日記」や、生家をモデルにした「花へんろ」、胎内被爆者を主人公にした 「夢千代日記」などがあります。
常に庶民の目線で描く独自の作風が多くの共感を呼びました。

渋谷が一番長いです。(30年になります)
緑も一杯あり(明治神宮、代々木公園)、劇場、デパートなども近くにあり珍しいです。
若者も集まりファッションの流行なども判ります。
愛媛県の瀬戸内の北条町に生まれました。(今の松山市内)
河野水軍の発祥の地でもありました。
母方が河野水軍の7將の一人だったらしいです。(出城を任されていた)
父親は隣町の北条町で商売をしていました。
商家に嫁いだので母は非常に戸惑ったようです。
両親はいとこ同士でした。
母は女学校に行っている時から歌が上手で東京の音楽学校に行きたいと言ったが許可してもらえなくて、家を出て行くと言うふうに思ったそうです。
お金を借りに伯母さんの所に行って、お金を借りて出かけようとしたら船が出なくて、関東大震災が起きた時だったそうです。
東京が無くなってしまったと言う号外が出て、そんな所に行ってもしょうがないので暫く家にいなさいと言うことになりました。
伯母がうちが貰うからと言うことに親の方で勝手に決めて父の処に嫁ぐことになったそうです。

昭和4年に生まれました。
いとこ同士なので子供を産む事に対してしてはちゃんとした子が生まれるかどうかと言う疑念は持ってたようです。
結婚の承諾を得ようとしたときに医者に相談に行ったそうです。(遠縁の医者)
3人目が僕です。
生まれてきてもしばらく泣くこともなく死産かと思ったそうです。
超虚弱児で3歳まで立てなかったそうで(這うだけ)、奇妙な病気ばっかり掛かって、この子は10歳まで生きれるかどうかと医者に言われたそうです。
骨がちゃんとしてないせいか、立てなくて、お坊さんに相談したら名前が悪いと言うことを言われて、最悪の画数だそうです。
理由もなく名前を変えようとするには、本籍から変えないとダメと言われたそうです。
本籍を変えるには一つだけ方法があると言うことで、僧籍に入れば変えられるとのことでした。
河野水軍の菩提寺の処で、うちで得度式をやりましょうと言うことになりました。
すこしその時の記憶があります。
お坊さんが二人あらわれて剃刀を持ってきたので泣き叫んだことを覚えています。
本当に剃る訳ではなくて、刃を反対にして剃る真似をするだけでした。

名前を変えましたが一向に立って元気になる気配はありませんでした。
四国遍路をするしかないかと言うことでした。
四国遍路では難病の人もたくさん歩いていました。
母は私を乳母車に乗せて母の知り合いと四国を回ったのですが、かすかに覚えています。
急な坂道、山道、峠があるのでその時はおんぶして歩くしかなくて、背中に負われて坂道を上がった坂道とか、一緒に転んで痛い思いをしたとか、断片的に覚えています。
2カ月半かかって帰ってきました。
しばらくして立つことが出来ましたが、こんなにうれしいことはなかったです。
オリンピックの三段跳びのラジオの中継をしていた時でした。(西田 修平選手)
皆がワーッと騒いでいた時で、おふくろが振り向いたら僕がよろよろしながら店に出てきたと言うんです。
大きくなったらおまえは四国を回らないといけないと言われて、30歳頃に回りました。

四国遍路は1400km有るんで大変でした。
平坦なところばかりではなくて急な坂はあるし、雨の日もあるし風の強い日もあるし、そういった中で1400km歩くのですから、母はさぞやたいへんだったろうなと思います。
うちはデパートだったのでアメリカ製の頑丈な乳母車がありそれを使って行って修理をしたりしながら乗り潰しています。
親爺は半ばあきらめていたようですが、母親の一念と言うものは凄いですね。
文房具も扱っていたので、下関の金子みすゞさんの家が大陸へ文房具、本を輸出していた卸屋さんでうちの富屋も納入していた関係で、おふくろはそこの娘さんが金子みすゞさんと言うことをよく知っていて、おふくろは金子みすゞさんの詩をよく知っていて夜などに良く読んでくれました。
30歳前で自殺するわけですが、僕が2歳ぐらいの時でどうしてあんなに素敵な詩、童謡を作ってくれる人が死んだんだろうとしきりに言っていました。

小学校の6年に太平洋戦争がおきまして、軍国主義教育が徹底して行く中で、松山中学に入った時には身体を鍛えることばかり前面に出ました。
その頃から急速に元気になりました。
裸足で駆けて上半身裸になり乾布摩擦をしたりするわけですが、それが良かったのかなと思います。
海軍兵学校に入れる肉体になっていました。
大きな軍艦に乗りたいと思いました。
戦艦大和が有ると言うことで大和に乗りたいと思って海軍兵学校に入ることになりました。
母親は戦場に送り込むことを喜ぶ人はいなくて、男は全員戦場に狩りだされると言うような状況になり、拒否する訳にも行かず、母親としては力が及ばない時代だったと思います。
半年で終戦になり助かりました。
兵学校では赤痢にかかりがりがりになって帰ってきました。
母が迎えに来ましたが僕を判らずにいて、それほど痩せていました。
松山中学に復学して、国の為に戦えと言って教育した教師が悪かったとも言わずに、教科書を取りだして黒く塗りつぶせと言って授業を始めるので本当に腹が経ちました。
教師、教育に対する不信感を持ちました。
先生は間違った教え方をしたという一言も言わなかった。

登校拒否をして家でごろごろしていましたら、母親が新しい教科書を持って来なさいと言って、歴史書など以外の理科系は全然塗られえていないじゃないか、こういうところがあるから行きなさいと云うんです。
1年近くいかなかったが学校に行き出しました。
理科系は変わっていないから医者になりなさいと言われました。
医者になるのは嫌で演劇の方に入ってしまう訳です。
家は劇場も持っていましたので、映画、芝居浸けになっていたのでその方に逃亡する訳です。
僕の作品を母親はよく見てくれていました。
なかなか地元では喜んではくれませんでした。
NHKが放送してくれた時にはようやっと一人前になったと言ってくれました。
「夢千代日記」などを見ていて、日本海側の暗い話を書かないで瀬戸内海の明るい話を書いたらどうと言われて、母親がうちらの街の事は楽しいよと言われて「花へんろ」を書きました。
おふくろが生きている間はあそこが違うのではないかとか言われそうで、描きにくかったですね。
結局おふくろが亡くなってからでした。
ちゃんと生きれる子供にしてくれたのはお袋のお陰だと思いますから、本当に凄いなあと思います。
お遍路文化、遍路の持っている意味みたいなものを凄く人生の中に取りいてれ、取り入れざるを得ない様になって行きました。
遍路さんは小さい頃は陰気くさくて嫌でしたが、段々大きくなるにつれてあそこは日本中の人の悲しみ悩み喜びまで表現して歩いている。
遍路道に佇めば今の日本人が良く判る。
今日本人が何を考え、何を悩み、悲しみ、何を喜ぼうとしているのか遍路道にいるとそれが判ります。
78歳で母はなくなりましたが、親爺が介護し、看取られて行きました。
母は姉しか聞き取れない言葉でいって、その時姉がクスッと笑って、「メガネをお掛け」と言ったと私に言ってくれて、(メガネをかけると素敵に見える様で)、最後の言葉として「メガネをお掛け」はないだろうと思ったが、おふくろが亡くなった後に「メガネをお掛け」と云うことを思い出すと思わず笑ってしまうんですよ、悲しませずにしてくれたんだなあと思います。