本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】大久保利通
講談師 神田蘭
大久保利通は明治政府の国家を作った新政府のリーダー。
講談による紹介
維新の三傑(西郷、木戸、大久保)と言われる。
薩摩藩の下級武士に生まれる。
幕末において島津久光の信頼を得て幼馴染みの西郷と共に江戸幕府を倒し、明治新政府を作ります。
明治新政府の中心人物として、沢山の新しい制度を打ち出していきます。
①版籍奉還、藩の領地と領民の籍を朝廷に返すこと。
②廃藩置県、藩を辞めて府や県を置いた、討幕でばらばらになっていた日本を纏める為、中央集権化として行った。
③岩倉使節団に参加して、欧米をくまなく視察して回る。
大久保利通文書
「列強諸国の進んだ技術、文化に圧倒された大久保は帰国後、殖産興業を推し進めて行く。
およそ強国弱国の違いは国民の貧富に由来し、国民の貧富は物産の多いか少ないかに依る。
物産の多少は国民が工業に従事し努力するか否かによるが、その起源については政府高官の指導奨励に依らないことはなかった。
政府に願いたいことは一定の規則を設けて殖産興業を興し、国民の一人といえども怠惰であったり参加出来なかったことがないようにし、国民を豊かな生活にまで達成するようにしたい。
国民が富裕になれば国家も富強になるのは必然のことであると、冨岡製糸場を作るなど殖産興業を推進し、近代化に向けて尽力して行くのです。
物凄い勢い力で事を押し進めると反発が出てきて、活躍の場を失った不平士族から独裁していると言う声が上がったのです。」
岩倉使節団で欧米に行っている間留守政府を任された西郷が征韓論を打ち出したのです。
この時大久保は朝鮮と戦をしている場合ではない、国内で力を付けるのが先であると、征韓論に反対します。
西郷は政府を去り、鹿児島へと下野、明治10年不平士族とともに西南戦争を起こしたのです。
大久保は内乱のさなか、上野公園にて第一回内国勧業博覧会を決行する。
日本国内の産業の発展を促し、魅了ある輸出品を育成することを目指した会だった。
西郷は城山で自刃、西郷の死を知った大久保はおはんの死とともに新しか日本が生まれる、強か日本が、と言って号泣したそうです。
西南戦争は彼の真意ではなかったことを大久保は知っていたのかもしれません。
あくる年、大久保は紀尾井坂の変で不平士族6名に依り暗殺されてしまう。(49歳)
暗殺した者たちは、西郷を殺した張本人、国の金を無駄使いした悪い奴という理由で殺害したが、これは全くの的外れでした。
大久保は公共事業の費用不足を補うために私財を投じ、その上借金までしていました。
当時で8000円(いまでは1億円を遥かに超える額)
債権者もこれを知っていて、死後家族に対して一切取り立てをしなかったと言います。
「維新は30年でやり遂げるつもりでいないとだめだ、最初の10年は創業、次の10年は国内を整えること、最後の10年は後進たちに任せたい。」との言葉を残している。
夢半ばでこの世を去った大久保利通、どれ程無念であったことか。
鹿児島の下加治屋町で育つ。
1830年生まれ、西郷よりも3つ下、素晴らしいコンビだった。
大久保は中央集権体制を作るために色々施策した。
版籍奉還、廃藩置県をやったことは物凄いことだった。(700年続いた武士階級の否定)
富国強兵の為外国に行って勉強、岩倉使節団が2年に渡って欧米先進国を見てくる。
西郷を首班として、日本を留守にして先進国を見てくる。
明治4年11月12日に出発してアメリカに行き、その後ヨーロッパを見る。
ヨーロッパに着いたのが明治5年7月14日、イギリスに4カ月滞在。
大久保の西郷への手紙(明治5年10月15日)
「・・・大都市のいたるところに製作場がある、特にリバプールの造船場、マンチェスターの木綿工場、グラスゴーの製鉄所、グレノックの製糖工場、エジンバラの製糸工場、ニューカッスルの製鉄所、ブラッドフォードの絹織物工場、毛織物工場、シェフィールドの製鉄所、バーミンガムのビール工場とガラス工場、チェスターの製塩工場などが巨大にして機械精巧をきわめている。・・・イギリスの富強なす所以がここにあることが分かった。
どんなに僻遠な地でも道路橋梁に手を付けており馬車はもちろん、汽車がすべての地方を通っていることである。」
大久保の大山巌への手紙(明治5年10月20日)
「・・・裁判所、刑務所、学校、貿易会社、製作所、古寺、古城などもれなく訪れた。
資源としては鉄と石炭位であり、原料を多国から輸入して製作品を輸出している。
製作場の事はかつて聞いていた以上である、到る処黒煙が天にのぼり大小の製作所が設けられている。
イギリスの富強なる所以を知ることができた、特にスコットランド地方は純朴の風があり山川など地形はわが国を彷彿させるものがある。
貿易や工作が盛大になったのは50年前ごろからの様である。
とするならば、全て蒸気車が発明された以後のことである。
開化を進め貿易を盛んにすることは半ば汽車にもとずくものと察せられる。」
フランスには明治5年11月16日に入る。(2か月間いる)
大久保の西徳次郎(ロシア留学中)への手紙(明治6年1月27日)
「ロシアの政体、規則と召喚の規則を調べてもらえないだろうか。
アメリカ、イギリス、フランスなどはすでに全て調査を終えているが、この3国は開化昇ること数層にして及ばざること満々である。
プロシア、ロシアには必ず標準とすべきことが多いと思われる。
特にこの両国を注目するつもりなので、我国のためによく調べてほしい」
ベルギー、オランダを通ってドイツに向かう。
ベルリンに明治6年3月9日着、宰相ビスマルクなどに会う。
大久保の西郷への手紙(明治6年3月21日)
「ドイツは他のヨーロッパ諸国とは違って純朴の風があり、有名なビスマルクやモルトケの大先生を輩出した国である。
ビスマルクは国民の信任が厚く政策は全てこの人の方針から出ていると思われる。
陸軍に力を注いでおり、この上一層の強国となるであろう。
陸軍の調連も見学したがその凄さには感服した。
ドイツの滞在は十分でなくその真味を噛むことはできなかったが、ビスマルク、モルトケの大先生に面会できたことだけが益である。
イギリスの製作場、フランスの豪傑ピエール、ドイツの大先生ビスマルク、イギリスからは国家富強の源泉、フランス、ドイツからは政治家としての統治能力を学び取ったと共に日本との落差が想像以上であることを実感させられた。」
先ずは国を豊かにする、国民を豊かにすることが日本を強くすることだと言うことを学んで、政治家はどうあるべきかをフランス、ドイツの政治家から学んだ。
征韓論により大久保と西郷は対立するようになる。
不平士族をどうするか、二人は考えて西郷は不平士族の力で征韓論と言うことを言いだした。
大久保は今はそんなことをしている時期ではないということで対立が生まれてきた。
明治10年西南戦争。
明治6年内務卿の役職(内閣総理大臣)に付く。
その後内務省、お金、日本を豊かにする、治安維持などに積極的に携わるが、戦後解体。
明治7年佐賀の乱、陣風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続いて明治10年7月29日に西南戦争が勃発。
9月24日の西郷自刃で終結する。
大久保は心で泣いていたと思う。
大久保利通は明治11年5月14日に不平士族に暗殺されてしまう。
西郷は「敬天愛人」
大久保は「為政清明」 政治を行うためには清く明るくなくてはいけない、私心があってはいけない。
冷静沈着、寡黙な人と言われているが、子供が大変好きで令嬢と良く戯れていた。
酒はあまりたしなまず囲碁、煙草、狩猟、相撲が好きだった。