2018年1月1日月曜日

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(1)

柳家さん喬(噺家)           ・芸より人を磨け(1)
去年芸歴50年のさん喬さんはこっけい話から人情話まできめ細やかな演出で聞かせる
正統派の落語家として知られています。
1948年昭和23年東京墨田区本所で生まれ、1967年高校卒業後5代目柳家小さんに入門して落語の世界に入りました。
前座名は「小稲」5年後の1972年に二つ目に昇進、「さん喬」に改名、1981年に真打ちに昇進しました。
2000年にフランスのパリで落語を紹介する活動や、2006年からは毎年アメリカのミドルベリー大学に招かれ落語を通して日本文化を紹介する活動なども行っています。
平成25年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、去年には紫綬褒章を受賞しました。

自然と腹式呼吸が身に付いてくるので喉の疲れがないです。
2時間は喋れます、最長で牡丹灯籠の通しで4時間喋ったのがあります。
NHKの「美の壺」の番組があり、自分の着物を数えてみたら百十何枚ありましたが、ほとんど着て居ないものが多くて、気にいったものしか着ないので。
師匠の小さんは黒紋付が主で、どんな話でも黒紋付ですが、今の若い人は色の濃いものとか、色羽織を着ています。
ピンクの着物に赤の羽織とかを着ている者もいます。
衣装は不思議なもので身につけたときに自分が共有出来る。
渋い話の時に渋い着物を着ると自分も話の中に溶け込んでいける作用もあるような気がします。

去年で50年、あっという間でした。
前座の頃の方が思い出深いです。
落語の世界に入って教えていただくことが、自分の中に無かったものがどんどん肥やしとなっていって、無駄なものもありますが、無駄なものは一回身につけないと判らない。
必要ないと気が付くのは10年20年たってからですが。
平成25年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、去年には紫綬褒章を受賞。
伝達式の時には師匠のところにお墓参りして、これから行ってきますと言って行きました。
師匠が50周年の時の色紙に「芸の道化けろ化けろで50年」と書かれました。
2002年5月16日に師匠が亡くなって、その日が受賞の伝達式でした。
「伝統派の落語の雄」とか言われて恥ずかしいですが、正統な中にも新しくものを見ることを考えないと、正統ではなくなって行ってしまう、古いものだけで終わってしまうような気がする。
料理と同じでレシピー通りにやってもなかなかうまくはいかない。
お客様が求める味を提供するように落語も提供したいと思っているが。

1948年昭和23年東京都墨田区本所で生まれ、引っ込み思案でした。
お祭りの時にお神輿を担ぐわけですが、半纏を着るのが恥ずかしかったです。
学芸会で誰っもやらないのでてを上げたら、主役をあてがわれて、人前でやることの楽しさが芽ばえてきてしまいました。
翌年も次の年も、3年間続いて主役をやることになりました。
子供のころは兄の後を付いてばっかりいましたが、兄も47歳で亡くなってしまいましたが、こうしていられるのも兄のお陰で感謝しています。
中央大学付属高校に行きました。(通学が1時間半位)
隣に鉄材を販売している大きな会社があり、夜間の中央大学に通っている人がいて、朝に家の洋食店で朝食を食べて、夜も食べていた人がいて真面目な人で自分もそうなれるようにと中央大学付属高校に行きました。
生物部の部員が少ないので入ってほしいとの友人の神山に言われて生物部に入りました。
別に小噺研究会が出来て、先生の前で話をしたら、文化祭に手を貸してくれるように言われぐっと落語が近くなりました。

お爺さんも父親も落語をよく聞きに行っていました。
当時学生運動が盛んで、トラックが校庭に突っ込んできてアジ演説をして、自分があこがれていた大学への思いが崩されていってしまって、その一点しか見ていなくて、挫折してしまって勉強はしたくなくなってしまいました。(10代では一か所しか見れなかった)
先生から「大学にはこのままではいけない」と言われたときに、「落語家になりますから」、と言ったら、「お前ならいいな」と言われてしまいました。
大学の学内選考の試験がありましたが、受けませんでした。
大学へ入った友人とは大学のメールボックスで手紙のやり取りをしていました、それらの友人とは今でも酒を飲んだりして付き合っています。
8代目文楽師匠が好きでした。
身近に考えると小さん師匠が自分にしっくりして、小さん師匠の事を調べてみると人望があり、当代の落語のNO1の噺家であろうと言うようなことで小さん師匠の話をよく聞くようになりました。

志ん朝師匠の「井戸の茶碗」を高校の時に聞いてスキップをしたいようなさわやかな気持ちになり話って、落語ってすごいなあと思って落語家になろうと思って小さん師匠のところに行こうと決めました。
ある方(いまの三遊亭 圓窓師匠)に相談したら取ってくれないと言われてしまいました。
馬生師匠のところに行こうとしたら、大沢さんが小さん師匠とは知り合いで紹介してもらうことになりました。
雲助師匠(若林)とは歩いて5,6分のところにあります。
若林くんが小さん師匠の弟子になりたくて寿司折を持って来たんですが、師匠が居なくてみんなで食べてしまいましたが、後で師匠から叱られてしまいました、たとえ生ものでも絶対返すんだと。
雲助師匠とは同門でなくて良かったと思います、同門だとどっかで妥協してしまうと思いますし、同門にならなかったことで違う味で違う話を出来ると思います。
畑が違うことによって違う味の果物ができた、と言うような感じがします。