柳家さん喬(噺家) ・芸より人を磨け(2)
小さん師匠はこきみよく怒ります。
自分で考えさせられる様な言葉を言います。
前座の頃、「おめえも駄目だな」と言われました。
おまえはいくらか違う面で俺はお前のことを見てたんだ、でも結局同じことをしたな、と言うことで「おめえも」なんです。
一番優しさを感じたのは、師匠に黙って4日ほど出かけて行ってしまったんですが、剣道の稽古を師匠に替わって子供に教えていたりしていたんですが、日曜日にそれが重なってしまって、師匠に知られてしまって、寝起きしたばかりの師匠の前で「勝手なことをしてしまって済みません」と謝ったら、ふすまが開いて「馬鹿野郎、誰に頼まれたんだ」、「〇〇師匠です」と答えると「おめえな、俺がその人に会ったときに礼が言えねえだろう。黙って旅に行くんじゃねえ。俺がその人にうちの小稲がお世話になってますと、一言も礼がいえない俺のことをかんげえろ やめちまえ」と言われました。
今は亡くなったおかみさんが、後ろで聞いていて、「許しておやり」と一言で終わりになりました。
そのうちに「小稲」と呼ばれて、もうダメかと思ったが、師匠が「そこの着物たたんどけ」と云って普通の今まで通りで、もう涙が出てきて止まらなくて着物をたたみました。
お前考えろ、という師匠でした。
ただ食べることは相反しています、皆閉口しています。
一緒に食べにいってもうこちらは満腹状態なのに、ラーメン頼んで、店の人にとても食べられないと言って心得て、運ばれてきたラーメンはそばも少なくておつゆも半分で、師匠がそれを見て自分のと量が違うのに怒ってしまって、そうしたら支配人が他のお客と間違えましたといったら、「そうか」と言うことになりましたが、ひょいと後ろを見ると他にお客なんか誰もいませんでした。
若い者には食べることで辛い思いをさせたくないと師匠にはおありになったんですね。
当時真打ち試験では大勢いました。
その第一号が、僕とか、雲助さんとか、ちょっと先輩の人たちでした。
いいですといったんですが「受けろ」と言われて、受けさせてもらいました。
緊張しましたが、受かりました。
師匠が芸から身を引こうと言う時に、たまたまぶつかっていました、弟子では私一人でした。
紀伊国屋落語会でトリを師匠がやって、まえかたを私がやりました。
師匠は「笠碁」をおやりになって、「お前まだ、かぶり傘をとらねえじゃあねえか」と言うのがさげで話が終わるが、師匠はそのまま話を続けてしまって、でも師匠は間違えたことに気づいて何処でこの話を終わらそうかと、「俺が責任を取るから俺がよしと言ったら追い出し太鼓をうってくれ」と私が言って、師匠が「おまえさん ピシッ」とやった時に、今だと言うことで太鼓とともに幕が半分まで閉った時に、師匠が「幕上げろ」、「さん喬」と高座から呼びました。
お客さんの前で叱られると覚悟していたら、「どうやら俺は話を間違えたな」、「間違えじゃあありません、ちゃんとさげをおっしゃいました、お客さんさげをいいましたよね。」といったらお客さんが手を叩いてくれ、師匠は納得してくれて、その後この話はだれそれに教わったと「笠碁」に関する話をして、そしてお客さんの質問とかも受付しましたが特になくて、幕を締めることになりました。
帰りがけに車に乗るときに「さん喬 ありがとうな」といわれて、もう涙が止まりませんでした。
それが師匠の生の話を身近に聞いた最後でした、その翌年に患い疲れて亡くなってしまいました。
そこに立ち会えてた自分はある面幸せだったと思います。
それを誤解してある物書きのかたが、「小さんは高座で間違えたのをさん喬を高座で怒鳴りつけた」と書いて、それは凄く癪に障りました、悔しかったですね。
「笠碁」をやらしていただいて、師匠が「お前かぶり傘を取らないじゃないか」、と言ってそのあとに、黙って碁を打つシーンが本当の「笠碁」だと思いました。
雨がシトシト降っていて、二人が仲直りをして、お互いの心の通い合っている隠居さん同士が「お前も長生きして良かったな」と言うような言葉を交わしながら、碁を打っている。
師匠の紀伊国屋落語会の「笠碁」はそんな風な話に見えたんです。
「お前かぶり傘を取らないじゃないか」といって、その後、黙って碁を打ち始めるのが本当の「笠碁」の終わりなんだと思いました。
師匠は普通の生活の中のことは相手の立場になって考える、自分の事は二の次と云う風な感じでした。
芸のことはあんまりないです。
たまに芸の事をポツンポツンといってくれましたが、翌朝になるを忘れてしまうからな、と言われました。
「芸を磨くよりも己を磨け」とよく言われました。
「そうすれば芸は付いてくる」、と言われました。
「嘘は本当、本当は嘘、だけど本当は本当」 禅問答のような言葉だが。
嘘を本当のように聞かせて、本当のことは嘘のように聞かせる。
だけど、人間の心の本質はちゃんと描け、と言うことと思います。
言葉では判るが、なかなか判らない。
雪が降って来るシーンでも、細やかに云うよりも「雪が降ってきたね」それだけで雪を表現する。
自分の心のなか、本当に人間の心として逆に伝えることが出来るかと云うことが一番大切なことなんだろうなと思えます。
伝えることは本当に難しいと言うことをつくづく思います。
剣道から教わったこと、「物事は全部互角だ」と言うんです。
7段と3段が立ち会う時には、自分も3段に成れと言うんです。
自分が3段だと思わないと、優位にたって上から物事をただ押さえつけることになってしまうので、相手と同じような気持ちになって相手に対しろ、お客さんに対しろ、芸は何時も互角だぞ、お客さんとは互角、ということを剣道の中から教わりました。
「守って、破れて、離れる」
「守る」ことは、同じこと、人のまねをすること、「破る」は教えてもらったことを自分で如何に破って出るか、「離れる」は教えてもらったこととはまったく違ったもの、自分独自のものを作り上げて始める。
「離」が難しいと言われました。
おかみさんも素敵でした。
人が悪口を言っていたらお前そこからいなくなるんだぞ、お前がそこにいれば言ったことになるんだ、そういったことを言ってくれました。
わざわざ遠くに八百屋にいかせる、お茶代をくれて息抜きをさせてくれる。
家の洋食屋にわざわざ来てくれたりしました。
「見てる人は見てるんだぞ」と言ってくれます。(芸でも私生活でも同じ)
師匠が出かけるときに「お父ちゃん」といってほっぺにチュッしたりして、素敵なおかみさんでした。
私のところには弟子が11人います。
30数人弟子入りの希望がありました。
弟子を取るかどうかは肌合いですかね。
弟子を預かると言うことはその人の人生を預かる事ですから、師匠への恩返しなんてことではなかったです。
いい噺家を育てないと恩返しにはならない。
昨年11月にさん喬一門会を行いました。(年一回)
木と言うのは幹には花は咲かない、枝先に花が咲く、自分が幹だとしたら幹がしっかりしていないと枝先には綺麗な花は咲かないので、自分が花を咲かせるのではなくて枝先の弟子たちが綺麗な花を咲くように、自分がしっかりした幹になり栄養を吸い上げて枝葉に届くような幹で居ないと弟子は育っては行かないと思うようになりました。
あと20年若返りたいと思ったりしますが、そうすれば今の考え方での噺家だったらどれだけいい楽しい話を演じられるかなとは思いますが、いまからでも遅くはないと思います。
分野の違う人達となんかやっていけたらいいなあとも思っています。
「芸は死ぬまで修行です」と8代目桂文楽師匠が言いましたがすべての芸は終わりはないと思っています。
「芸は60を頂点と考えろ」と師匠が言いましたが、自分が出来ることを60迄に形として作り上げろ、その後余命を残してどれだけ自分を作り上げることが出来るか、60が終点ではない、と言うことです。