ボニージャックスは昭和33年早稲田大学の男性合唱団グリーンクラブ出身の4人で結成されました。
1962年に「小さい秋見つけた」で日本レコード大賞童謡賞を受賞、童謡や叙情歌、世界の民謡などレパートリーは5000曲を越えています。
最近では 60周年記念アルバム、昭和歌暦や、若手コーラスグループ「ベイビーブー」と新グループ「ボニーさんとブー」など活動を続けています。
バスの玉田 元康(83歳)、バリトンの鹿島 武臣(83歳 1月1日で84歳))、セカンドテナー吉田 秀行(52歳)、トップテナー西脇 久夫(81歳)。
*「はるかな友に」 作詞作曲 磯部 俶 (いそべ とし)
昭和33年12月24日が初ステージ。
4人でライトミュジックやろうとしたらはまってしまってそれがきっかけになりました。
(大町 正人を含めて)
就職は決まっていたが、のど自慢みたいな番組に出てみようと言うことで出たら、審査員をやっていた笈田敏夫さんが大変褒めてくれて、先輩にダークダックス(慶応)が居て、やって見ようかということになりました。
ジャズばやりで進駐軍のキャンプ回りで鍛えられました。
磯部 俶 (いそべ とし)さんがボニージャックスと言う名前を付けてくれました、「愉快な野郎」と言うような意味合いです。
磯部 俶 (いそべ とし)さんにはみんな仲人をして貰いました。
私(吉田 秀行)は2003年に入りました。
*「あの人が居た夏」 作詞:喜多條忠 作曲:大谷明裕 新曲
ボニージャックス60周年記念で出そうとした。
早稲田に稲門歌謡会があり、プロの作詞作曲家、レコード会社の会長社長、プロダクションなど音楽関係の人たちが飲み会ばっかりやっていたが、ボニージャックス60周年記念と云うことで味のあることをしようと言う事で、会長の鈴木淳(作曲家)さんが副会長いではく(作詞家)さん、幹事長が大谷明裕(作曲家)さん、喜多條忠(作詞家)さん等が私たちのためにCDを作ってくれました。
オリジナルシングでヒット作を出さなければいけない様な立場だったらしいが、歴史唱歌、世界の花、世界の街とかを歌うLPを作ってくれました。(ヒット狙いではない)
レパートリーは5000曲以上になりました。
ロバの会(磯部 俶、中田喜直、中田一次など)が新しい童謡を作る会を主催して童謡が物凄く増えました。
*「小さい秋みつけた」 作詩:さとうはちろう 作曲:中田喜直
(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
とかしたミルク わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(三)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
昔の昔の 風見の鳥の ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
紅白歌合戦に出場する。
ロシア民謡、親しみやすいメロディー。
ソ連に行ったときにはロシア民謡ではなくて日本語で日本の歌を歌ってほしいと言われた。
「ブルーシャトー」、「シクラメンの香り」、「恋のバカンス」などが受けました。
「車いすのおしゃべり」、身体障害者の施設に慰問に行っていたが、詩集を貰ったりして、そこから作曲したりして、作ってくれた施設に行って歌ってあげていたりしていました。
その後LPにすることになり、世の中に広めようと言うことで「車いすのおしゃべり」というタイトルを付けました。
詩を貰って作ってあげると言うことではなく、一緒に作ろうというスタンスです。
始めたのは1970年代でした。
社会のルールに従って製作作りをやって、作った人にはそれだけの権利があると言う、そういう作り方をしてきました。
三方一両得(著作権)子供達、歌い手、レコード会社と言うことです。
*「ちんちん千鳥」 作詞:北原白秋 作曲:近衛秀麿
ちんちん千鳥の啼く夜さは、
啼く夜さは、
硝子戸しめてもまだ寒い、
まだ寒い。
ちんちん千鳥の啼く聲は、
啼く聲は、
燈を消してもまだ消えぬ、
まだ消えぬ。
ちんちん千鳥は親無いか、
親無いか、
夜風に吹かれて川の上、
川の上。
ちんちん千鳥よお寢らぬか、
お寢らぬか、
夜明けの明星が早や白らむ、
早や白らむ。