2017年12月1日金曜日

中山欽吾(東京二期会理事長)       ・エンジニアのオペラ改革

中山欽吾(東京二期会理事長)    ・エンジニアのオペラ改革
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。

音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。

1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。

当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。

あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。

「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介 
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。

「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。