菊本照子(ケニア・マトマイニ孤児院院長) ・アフリカの大地に生きる(1)
36年前にアフリカのケニアにわたり恵まれない子供たちと共に生きる菊本さんは孤児院経営の傍ら女性の自立のために羊毛から作る工芸品フェルトアニマルを販売したり寄付をつのる為に今年も来日しています。
ケニアは赤道直下ですからこちらが冬の時には夏になります。
四季は無いが微妙に夏と冬はあります。
私が住んでいるナイロビ近郊は1700mですから、さわやかな高原と言う感じで朝夕は寒いです。
夜は暖房をたいたりします。
温暖化が進んでいるので天候不順が続いています。
国土の7割ぐらいが乾燥地、半乾燥地です。
木が伐採されて国土の僅かしか森林は残ってないです。
私的な用事、公的な用事がいろいろあり年に一度は日本に来ます。
講演をしてある人が作ったフェルトアニマルの事を話したりします。
ケニアに1981年に行きました。(36年前 33歳の時)
私が住んでいる東アフリカにアフリカの大地溝帯があり、そこが人類発祥の地になります。(そこから北に向かって行って世界中に広がった。)
北にエチオピア、南にタンザニアなどに囲まれている。
政情は今も揺れ続いています。
多民族国家なので色んな民族がせめぎ合いを繰り返しながら、5年ごとの選挙ありますが、そのたびに色々問題が浮上してきて民族間の争いが起きています。
ケニアはマラソンでは有名ですが、ある部族と云った感じで国としての意識がないです。
ケニアは各民族の部族語があり、その上に東海岸から入ってきたスワヒリ語があり、更に上にケニアが独立する前のイギリスの英語があり、3重の構造になっています。
学校ではスワヒリ語の勉強をしています。
マトマイニ孤児院の「マトマイニ」は希望と言う意味です。
おばあさんは尊敬の意味合いもあり「ショウショウ」と言います。
若い頃東南アジア旅行をして、人々の生きる姿に心を打たれるものがあり、中学の教師をしていましたが思いきって辞めて、東南アジアに行きました。(1970年代)
高度成長のピークに向かう時で、そこでクーデターに出会って一旦引き揚げて、次にだめだったらアフリカに行こうと思いました。
新しいものに出会うととてもドキドキして、魅力にあふれた感じをうけました。
私は戦後日本に引き上げる途中急遽バナナ畑の鳥小屋で(台湾)で生まれました。
島根県に帰って、教師をして、OLもして結婚して長男1歳4カ月を抱いて家族3人でケニアに1981年に渡りました。
周りからはみんな反対されましたが。
最初は周りからみられる存在でちょっと怖かったこともありますが、みなさんいい感じでとても良くしてもらいました。
文化の違いがありすんなりとは溶け込むと言うことはありませんでしたが。
おととい息子からメールがあり、孤児院の子供達で14歳の子供たちが割礼をしないといけないけど、と言ってきたが向こうのしきたり通りやってほしいと、ケニアのスタッフにお願いしなさいと、返事を出しました。
日常のなかに色々驚きもあり新しい発見があります。
現地の在ケニア大使館の受付の仕事をして、現地採用の日本大使館の仕事を8年間続けました。
食べ物も多様性に富んでいます。
1日1ドル以下で暮らしている国民が60%以上占めています。
先生をしていたのでどうしても子供に目が行って、仲間と一緒にスラムに行きました。
電気、水、お手洗い、下水、学校もない、無いないづくしでしたが、子供が学びたいという勢いがありそれに感動して色んな活動の原点になっています。
3畳1一間に5,6人いるのが普通のスラムの生活です。
Save the Children Centre(SCC)
当時の政府関係者はスラムに入って欲しくはないと言われて、活動するんだったら団体にするように言われて、ケニアのNGOに登録して認定されました。
そうしないとスラムの子供たちに会えないので仕方なく立ち上げました。
その第一の活動として「マトマイニ孤児院」を立ち上げました。(1987年 30年前)
多くの子供が巣立っていきました。
あそこに行けば3食食べれる、病院にもいける、学校にもいけると言うことで、無責任な親もいるし、シングルマザーも沢山いるので、そう言う子供を保護養育することが必要だと言うことでたちあげました。
最盛期は54人いました。
食糧調達が大変でした。
資金は日本からのサポートなどからで,ケニア等の公の機関からの助成は無いです。
18歳までが制限でしたが、なかなか線をひけない。(24歳が歳年長 半分スタッフ仕事)
社会に出すのに四苦八苦しています。
社会に出た子が来てくれて資金、生活に役立つものを持ってきてくれたりします。
クリスチャン関係のサポートの孤児院、現地の人が立ちあげた孤児院、政府の孤児院など今では1000位の児童養護施設(ピンキリ)があります。
「風に立つライオン」小説、映画 さだまさし
ヒロイン 草野若子のモデル的存在。(菊本照子)
3・11の時には皆が祈ってくれました。
人として困った時には手を差しのべる、あげるものがなければあるものを一生懸命届けると言うことは皆持ち合わせていて、ヒューマニティーの部分があり、貧しくても心豊かに、人の生き方から学ぶ事は私がケニアの貧しい人たちと一緒に活動してきて私が学んだ事です。