本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。
講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。
西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)
司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。
政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。
参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。
日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。
当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。