大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(1)
昭和13年広島県尾道市出身、79歳、子供のころから映像の世界に親しんで来ました。
1960年代、大林さんが自主製作した映画は全国の大学などで上映されて高い評価を受けています。
1980年代には故郷尾道を舞台にした映画を発表し、世代を超えて支持されました。
近年は戦争と平和をテーマにした映画に取り組んでいます。
最新作「花筐(はながたみ)」は、去年の夏、肺がんで余命半年と告知されながら真夏のロケを終えて今年 5月に完成されました。
以前より13kg痩せました。
自覚症状としてはとても元気です。
肺がん第4ステージの余命3ヶ月です、診断上は、でも余命3カ月と言われて1年3カ月生きていて現実には余命未定です。
映画の仕事はいつも想定違いが起きるので、それをついてないとか思うとその一日は負けなので、映画に生かてたやろうと言う事で、お陰さまでがんも映画の力になってます。
2010年ペースメーカーを入れて、初めて病院通いを始めてレントゲンを撮ったりしていたら、骨にがんが転移しているとのことで、映画撮影どころではないと言われたが、九州の唐津に行きますと言って、唐津に行って唐津の病院で診察を受けたら間違いなくがんの転移ですと、胃、大腸OK、肺がんが見つかり余命半年と言われました。
それを聞いた時、あー肺がんか、身体がポーっと温まってきて嬉しくなっちゃったんです。
それには理由があり、この映画は40年ぶりの念願の映画なんです。
原作者の壇一雄さんが能古島についの住処として住んでいて、40年前に映画化の権利を頂いていたんです。
その時に壇さんは肺がんで末期で口述式で代表作の「火宅の人」を書いていて、親爺たちと同じ世代で、親爺も戦争で人生をもぎ取られた人だし、壇さんもそうであるし、そういう人たちの断念と絶望と、そこで覚悟を決めて表現した事を、平和ボケと言われたわたしたちの世代が映画にする資格があるのだろうかと、親爺たちの戦争中の青春時代の悔しい悲しい絶望的な思いを映画にする資格があるのだろうかと、40年間おびえていたんです。
それが同じがんになったので壇さんと結ばれたと、親爺らの心の痛みも映画にする資格が少しは出来たのかなあと、40年ぶりに集大成と言われるような映画が出来たのも、わたしにがんを与えてくれた神様のおかげと言うんでしょうか。
原作は「花筐(はながたみ)」 花筐と云うのは謡曲にあります。(花筐:漢字でははながたみと読む。)
佐賀県唐津市で治療を続けながら去年の夏にロケを1カ月以上続ける。
最初2日間徹夜で撮影した。
3日目の朝、病院に行ったら余命3ヶ月ですと言われて、がんは倍々ゲームであと数日で余命が無くなりますと言われて、娘が先生に相談して撮影が終わればいいと言うわけではなく、編集し上げで1年かかるので1年は元気に過ごすにはどうしたらいいかと聞いたら、東京の先生を紹介してくれて、重体ではあったが妻としては映画の現場にいる僕が一番元気になると信じていて、やりとりした挙句先生がじーっと私の顔をみて「じゃあ、唐津にお帰りなさい」といってくれました。
錠剤を飲んで、薬の治療をしながらロケを続けました。
原作の頭に、「その町はまず架空の町であってもよい」と、わざわざ書いてあります。
意図があるとおもって、当時壇さんに聞いたら、それじゃあ唐津に行って御覧なさいとおっしゃって、その後壇さんは亡くなってしまい息子の太郎君と唐津に行きました。
原作にあるような風景など無くて、その謎を秘めたまま40年、それがようやく3・11以降の映画の長岡の花火の「この空の花 -長岡花火物語」、樺太の戦争を描いた9月5日まで続いていた戦争を描いた「野のなななのか」の映画を作って、それを唐津で上映してもらってトークショーをやっていたら、もう少し唐津を勉強してみませんかと言われて、唐津の「おくんち」というお祭りを見る機会があり、「おくんち」と言えば長崎、見せていただいたら長崎と違って地味なんです。
山車を曳いている人たちが妙にまじめ、本気、自分たちの魂を曳いているような雰囲気で、翌日町を散策すると、城内と城外がくっきり別れていて、「おくんち」は城外の町民の庶民のお祭りで山車を曳く人は代々決まっている。
昔戦争が有って曳き手が居ないと軍隊を逃れてもやって来て曳いたり、上官が山車を曳きに帰れと言ってこっそり帰してくれたと言う内々の言い伝えがある。
女性たちは家にこもって世界中から何処から来ても、「おくんち」の間は盛りだくさんのお料理でもてなす。(おくんちの翌日からまたそのための貯金を始める。)
名護屋城というお城が唐津にあって、豊臣秀吉の朝鮮出兵の出城だった。
日本中から権力者が集まっていたが、唐津の町人たちは権力にだけは屈しないぞと、唐津は町人の街だという自治のために、「おくんち」という祭りを作って、自分たちの命がけの祭りと町人の心息だった。
城内の人たちは交通整理をしています。
そういう祭りだと言うことがわかって、壇さんがおっしゃったのは唐津の風景ではなくて、唐津の精神であったと言うことが判りました。
壇さんは18歳の時に、自由に憧れた壇さんは、社会主義の運動に連座する(自由を求める気持ちで)、1年間唐津で放浪する。
町人の自治、誇りを学んでこれこそ自分が生きる街だと、そういう中で書かれて小説が
「花筐」だと言うことがようやく判りました。
ややこしい小説で、三島由紀夫がこの小説を読んで、「花筐」にたいする賛美がある。
「いまどき若者に出来ることは、命がけで恋をすることと不良になるしかないじゃないか」と云っていて、それが戦争中の若者です。
そののちの三島が書く小説、彼の死にいたるまで、「花筐」と同じように生きてきたんだと言うことがわかって来ました。
命がけで恋をすることと不良になるしかない、それ以上はなにも書けなかった時代ですから。
この小説を映画にして唐津に行ってみようと言うような、観光客が増えるとは思えなかったが、唐津の町民たちが、唐津とは関係なく日本にとって作るべき映画だと思うので唐津でやらせて下さいといわれて、唐津の精神で人々に唐津にほれ込んでもらお言うと言うことで作ったのがこの映画です。
壇さんが25歳でこの本を出版された時が昭和12年。
日中戦争が始まって太平洋戦争に繋がっていって4年後に原子爆弾に繋がる戦争の始まりだった。
これから戦争になるだろうと僕は最近とてもおびえていて、若者に伝えるには太平洋戦争から原子爆弾までを背景に描くべきだと、その方がいまの時代のリアリティーがでるだろうと思いました。
僕たちにとって一番信頼できなかったのは敗戦後の日本の大人たちで、戦争に負けたのに自決しないのか、僕たちを殺してもくれないのか、そういう約束だったのではないのか、
なのにふわふわと平和だといって踊りだしてしまって、今の若い人に伝えるにはどうしたらいいのか。
どうもきなくさいぞと、この頃感じ始めて、80歳になるこの頃、最後の皮膚感で体験した世代なんです。
反戦でもなくて、厭戦なんです。
でも世界では戦争は絶えない、でも何故かと言うと必要なんです、経済が豊かになるためには戦争が必要だと言う人がいるから。
食べるものがなくて水しか飲めなくても平和の方がいいんだと、言えるのが体験者である僕たちだけだから、それを今こそ言わなければいけないと言うのが、この映画を今やろうと決めた大きな原因でもあります。
観た人は不思議ですと、人ごとではない、自分ごととして受け止めてしまって反戦映画でもなくて、戦争というもののいかがわしさ、いやらしさが自分の問題としてズシっと来て、戦争は嫌だなという気持ちだけがはびこるように心に残ってしまう、不思議な映画ですと言います。
3時間近い映画ですが始まったらあっという間です。
たった70年前に痛みを持って家族を殺され、自分も死ぬ覚悟で味わった戦争が何故伝わらないのか、伝える手段がないんです。
壇さんが「花筐」と云う小説に戦争は嫌だということを書いたら出版できない。
言えないから肺病で病んでいる少女に命がけでほれ込む、裸で抱き合いたいほどの親友を殺すぞと言って不良になるしか表現できない。
自分が一番信じたいことを表現したいのに、それを封じられてしまって、結果伝わってこなかった、それを僕たちは伝えるわけですから、その気配を伝えていこうと思いました。
観たらそれなりに、自分の知っている戦争を思いだしてもらいたいと思います。。
大林的戦争三部作、「この空の花 -長岡花火物語」 新潟県の長岡花火は戦争で亡くなった人の魂を弔うための花火、「野のなななのか」は2014年 樺太での厳しい戦争の経験、
時代への状況への危機感、我々は平和の中の子供のふりをして、何も語らず生きてきた、昭和10~15年の頃の敗戦少年と呼ぶ世代、戦前を知っていれば違うが意識が芽生えたのが、戦争中なので完全な軍国少年であるがゆえに戦争が持っているいかがわしさも十分に感じていた。
その子供たちが3・11の時に一番思ったのは、日本の間違いだらけの敗戦後の復興のやり直しではないかと思った。
物、便利、快適だけで日本人は生きてきたけれども、3・11の時は日本人本来の姿に戻って、「清貧」と言う言葉がある、清らかに生きようと思えば貧しく生きるのが当たり前である、(明治の思想)、日本人はとても精神は美しかったと思う。
高度成長経済期ですっかり無くなってしまったが、3・11で東北の人達の生き方を見たときに、世界が手を差しのべてくれた。
戦争の歴史を描いた映画をつくって思ったが、日本人ぐらい戦争の事を知らない、学んでない国民はいないとつくづく思いました。
8/15は「終戦の日」と言うけれども、戦争は勝つか負けるかで終わると言う事はない。
ソビエト侵攻で戦っていた樺太、北海道の方では9月5日まで続いた。
「花筐」が出来上がって、婦人雑誌、ファッション雑誌までが取材させてほしいと言ってきて、今の時代がここにあるぞと、その中で生きている自分はこれに参加しなければいけない、そんな感じが伝わったんじゃないかと思います。
特に若い人がその気配を感じたと思います。