田口ランディ(作家) ・生きる力を取りもどして
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。
「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。
はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。
どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。
兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。
10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。
初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。
最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。
自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。