2017年12月8日金曜日

大林宣彦(映画作家)          ・シネマと歩んだ人生(2)

大林宣彦(映画作家)        ・シネマと歩んだ人生(2)
TVのコマーシャルの草分けとしても知られます。
話題のコマーシャルを数多く手掛け、CM界の巨匠とも言われる存在です。
大林さんは1977年「ハウス」で商業映画に進出し映画作りに新しい風を吹き込みました。

映画と言うのはそれを作る制度があり、映画会社に就職し社員になって、監督はいわば部長と同じ職能だった。
私はフリーなので部長とは名乗れない、自分は父親から貰った小さな8mmと言うカメラで、医者になるなら全て譲るが、映画と言うことでは譲るものがないので、自分がやりたいことを一生やるのは平和の印だから、映画をやると言うならそれをやり抜きなさいと言われました。
父親の平和への祈りの象徴である8mmを譲ってもらって、東京に出て来ました。
映画は1960年代まで見られる映画はほぼすべて観ていたと思います。
9つの映画館で2,3本立ての映画を全て見ていました。
月、火、水、木、金、土、土、日、日と1週間に9つの映画館で観ていました。
我が家に活動写真機があり、蒸気機関車のおもちゃだと思って遊んでいたが、実は映画を写す機械だと知って、遊んでいるうちに映画の作り方を自分で覚えてしまいました。(3~5歳)

今でも自分が映画を作っている自覚はない。
黒沢明監督も、「大林君なあ、俺だって作りたい映画の20,30本はいつでもあるよ、でも今なにを作るかだけは俺には決められない。
上の方にいる神様が、黒沢明よ、この映画を今作れと言われたときに作らないと、人に伝わらない、果物と同じで、おいしく味わいよく育つには、環境と旬が有ってそこだけは間違えてはいけない」、と言っていました。
世の中の事をしっかり観察して、いい事、いけないこと、特に危うい事を人に伝えて自覚してもらうことで、世の中が平和に一歩近づくことを力強くやれるのが、映画だと思っています。
かつて戦争をしていたから、子供なりにより純粋に受け入れていたから、だから今戦争の映画を作っているんですよと、60年前から変わっていないと思う。
16mmで始めて作った映画(「食べた人」)を60年ぶりに観たが、サツマイモで育った子供の日本人が大人になって飽食に時代を迎えてフォーク、ナイフで洋食を食べたのを我々はせせらわらっていました。
それをパロディーにしました。
後半、お腹一杯になった客たちが何故か包帯を吐き出して、レストラン中を巻いてしまう。
どうしてこんなことをするのかと言われ、日本人は飽食以上に戦争で傷ついたのだから地球上を優しい包帯で巻いてやりたいと思って撮った映画ですが、「花筐(はながたみ)」にも、包帯は出て来ます。
恋に傷ついたり、友情に傷ついたりした人たちをその包帯が包んでやると言う風な表現をしているのは本質はなにも変わっていない。

監督をして脚本を書き、出演もして、編集をして、作曲をして映画音楽の演奏もピアノで自分でやる、一人で作るのが映画だと思っています。
活動写真機と一緒に音の出ないピアノがあったが何なのか分からず積み木の遊びをしていたら、母親が「それはピアノと言ってとってもいい楽器で音がするんだけれども、音を出す金属が供出と言って、お国のためと金属を戦地に差しだされていったんだ」と言われました。
「お父ちゃんと同じように戦地に行ってタンクか軍艦になって敵と戦っているから音がしないんだよと、ピアノの音も、お父ちゃんも無事に帰ってくればいいね」と言われました。
父親は無事に帰って来て、父親が中古のピアノを買ってくれました。
叩いたらポーン、ポーンと音がして、音の積み木だと思いました。
その後映画館に行くようになって、ショパン、ブラームスにであったりしてそれを真似て、家で弾くと言うふうなことをやっていました。
中学生のころに中国地方の先生方が参観に来ると言うことで、先生からピアノを弾くように依頼される。
ショパンのように頭から身なりを整えて行こうと思ったが、ショパンの映画では彼は肺結核でチャリティーコンサートで演奏するのが映画のラストで、真っ赤な血を吐きながら演奏するが、それをやらないとショパンではない訳で、母親に相談したらトマトケチャップがあるからそれを持っていって口に含んで吐けばいいと言われて、血を吐きながら演奏したが、周りは静まり返ってシーンとしていた。

校長先生が来て、お前のおかげでピアノが滅茶苦茶になってしまったが、「これはただの道具でショパンはこの道具を上手に誰よりも愛して使ったから何世紀後の我々がショパンの思いも愛も全て味わう事が出来る、お前も信じる道を一生懸命勉強して、ショパンのように偉い芸術家になったら、このピアノも人様のお役に立ったかと、よろこんでくれるだろうと、このピアノを直すことはお前も先生もできないが、ピアノを幸せにすることはお前にはできるぞ、頑張ってみろ」とそれだけしか言われなかった。
今でもあのピアノは赦してくれたかなあと、もっと頑張っていい映画を作ろうと、励みにしてます。
経済的には厳しかったが母親は貯金をしていて、「今日宣彦が学校でピアノを壊すから弁償しないといけないから」と言って、貯金を全部持っていって、学校に行った。
そこまでやって当時の大人は自分たちが果たせなかった平和の喜びを、子供たちに味あわせてやろうと、ひしひしと伝わってきた。
僕自身はあくまでも医者であると、映画家があるとしてそこの医者であると、巻きごこちのいい包帯、良く効く薬のような映画を作ろうと、映画人生を生きて来ました。

作曲、演奏もしている。 映画「絵の中の少女」で30分演奏している。
*その一部を演奏。 大林宣彦 ピアノ演奏
最初にピアノに出会っていたら音楽家になっていたかも知れません。
子供が最初に何に出会うかが、実は重要な人生を決めるものですね。
システムと言うことは嫌いです、全ての世の中の犯罪はシステム犯罪。
コマーシャルは興行主義の極地ですが、僕にとってはコマーシャルを全部自分の作品だと思って、結果は逆に映画少年よりはコマーシャル少年と云うものを当時生みだすぐらいの人気になりました。
海外のスターをコマーシャルの登場と言うことをした草分けでもありました。
短編映画として世界の俳優さんとお付き合いするのが楽しかったです。
チャールズ・ブロンソン、3分の作品だが自分としては初めての主演映画なので、僕が頑張ると一生懸命頑張るからということでいい作品になりました。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソフィア・ローレン、ビートルズのメンバーとか会いたい人を先ず決めて、スポンサーを決めてやって楽しかったです。
コマーシャルで稼いだもので映画につぎ込み、ここで全部使い切りました。

私が映画会社から企画を頼まれた時には日本映画を観ようと言うお客さんはいなくなっていた。
「ハウス」 自分が自分を食べに来る。
7人の娘が食べる話に私が家をくっつけて、そこに住むおばあちゃんが戦争中に恋人を戦争に取られて一人きりで暮らして、戦争を知らない子供たちに戦争の恐ろしさを伝えるためにパクパク食べちゃうという話にして、企業の方に渡したら、監督が居ない、こんなばかばかしい映画は撮れないと。
2年がかりで私が一人プロモーションやって、コマーシャルで行く先々で、漫画、小説、音楽、ラジオドラマになる、みんなイエスとなるが、最後に映画にしなければいけなくなったがスイスに行っていた私が呼び戻されて、そこから若い監督たちが器用に進出すると言う新しい時代が来て、岩井 俊二、手塚眞、とか大林チルドレンと自からいってくれる僕の息子の世代にとってはこれぞ僕たちの映画だったんでしょうね、時代が新しく変わったと言うことになるかと思います。

尾道を舞台にした映画を作る、1980年代。
故郷で映画を撮ってお客さんを集めると言うことを最初にやったのが、尾道シリーズの作品でお客様が勝手に来てくれましたが。
観光行政的なことは大嫌いで、汚い街のくずれたりしたところばっかり撮るから行政からは 「転校生」という映画は行政からは上映中止命令が出たりしていたが、一見汚い皺だらけの街だからこそ皆が愛してくれた。
僕は皺を撮ろうとズーっと思っていた。
おふくろの皺を汚いと思ったことは一度もない、町にも皺があるから愛情こめて撮影したら、観光客は来ないと言うことで、街守り映画を撮った。(街興しとは違う)
それが故郷映画の出発になりました。

がんでは死ななくなりました、健康な皆さんに気を付けてもらいたいのは寿命が延びてしまう、自分の意志を越えて伸ばしてくれる。
100歳、120歳まで元気で生きるかも知れない、老いとの戦いは自分でしないといけない。
ただ生きているので無くて、好きな仕事をちゃんとやって好きな人たちと楽しくご飯も食べられ、そこで長生きをする。
がんに罹って本当に良かったと思うのは、変わった所があります。
がんを意識する前は道を歩いていて蟻の2、3匹、10匹は踏んづけていたかもしれない、道端の草など意識しないで踏んでいたでしょうね。
去年の8月25日、がん宣告以来蟻一匹、蚊一匹殺していません、草も踏んでいません、同じ命に見えるんです。
全ての命にたいして優しく出来ると言う能力を貰ったんです。
よりいい映画を作れる力をがんに貰ったと言うふうに思っています。
130歳まで生きようと決めました。(理想は高い方がいい)
新藤兼人さんが99歳まで撮ったので、30年は若い私としては30年はプラスしないといけないと思っています。
これからは病との闘いではなくて老いとの戦いですね。
新藤さんがやりたかったのは、原子爆弾、しかし組織では描けない、庶民はお金がない、20億円あれば素晴らしい原爆を告発する映画が出来ると新藤さんは言って、ピカとドンの間の2秒間を2時間にする映画、人間の狂気を正気に戻して描くのが私達表現者の仕事なので、私は新藤さんが描けなかった作品(平和への遺志を継いで)を原爆と向き合って描いてみようかなと覚悟しています。